デザイナーたちの物語 ヴィオレ・ル・デュク

弊社、大禅ビルが行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。

 

そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、

 

そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。

 

とは言え、私は専門的にデザイナーとしての教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。

 

本物のデザイナーというのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものだと思っています。

 

◯建築の命を繋ぐ修復家

今回ご紹介するのはヴィオレ・ル・デュク。19世紀フランスの建築家です。

 
デュク
 

ただし建築家といっても、デュクはこれまでご紹介してきた建築家とは一風異なり、歴史建築の修復で名を残した「修復建築家」です。

 

フランス革命で破壊されたり、放棄されたりした中世の著名な建築の修復に携わっており、ノートルダム寺院、サン・ドニの大聖堂、モン・サン・ミッシェル、サント・シャペル、カルカソンヌの中世の城壁など、デュクが関わった建築は数多くあります。

 

また、彼の建築形態と機能の関係に関する著作は、後のヴィクトル・オルタ、ヘクトール・ギマール、アントニオ・ガウディ、ヘンドリック・ペトルス・ベルラーゲ、ルイス・サリヴァン、フランク・ロイド・ライトら新世代の建築家たちに大きな影響を与えています。

 
ガウディ2
 

〇修復の世界へ飛び込む

デュックはナポレオン帝政末期の1814年にパリで生まれ、祖父は建築家、父は高級公務員と、幼い頃から教養水準の高い家庭環境で育ちました

 

学生の頃、古典建築の模写に始終するフランスの伝統的な建築教育機関エコール・デ・ボザールへの入学を拒否、代わりにジャック=マリー・ヒュヴェやアシール・ルクレールの建築事務所で実務経験を積みます。

 

またデッサン学校で教鞭を取りながら、各地の中世の教会や建築のデッサンに多くの時間を割き、建築を学んでいきました。

 

当時のデュクは古代ローマ偏重の古典主義でしたが、イタリアへのデッサン旅行を通じて、改めて中世ゴシック建築への関心を深めていくことなります。

 

その後、フランスの歴史建築修復官であった作家プロスペル・メリメの依頼により、古建築の修復に関わる機会を得て、ヴェズレーのラ・マドレーヌ教会堂の修復を皮切りに、パリのノートル・ダム大聖堂など数多くの建築の修復に携わるようになります。

 

その経験をもとに『11〜16世紀フランス建築事典』や『建築講話』などを著し、自らの建築理論を構築していきました。

 

ゴシック建築をすべて構造力学的に説明することを目指し、宗教建築の各部位に対して、合理的かつ機能的に整合性を与えたことが評価されています。

 

デュクは当時ではまだ新しい素材だった鉄の利用も認めており、ゴシック建築の合理的解釈を拡大し 懐古趣味に陥りがちだったゴシック・リバイバル運動を、機能美を追求する20世紀のモダニズム建築運動に繋げる役割も果たしています。

 

〇賛否両論の修復事業

彼が修復に携わった建築を幾つかご紹介します。

 

ヴェズレーのラ・マドレーヌ教会堂

 
デュク
 

デュクが最初に修復を手がけた建築です。

 

この教会はプロテスタントのカルヴァン派に略奪され、フランス革命の際にはファサードやファサード上の彫像が破壊されていました。

 

屋根部分は弱くなっており、脆くなった石材が落ちてきたり、また石材の多くも他の建物の修復のために持ち去られたりするなど、このまま放っておくといずれ廃墟となって荒れ果ててしまうような状態でした。

 

そこでデュクに「教会の昔の設計をすべて正確に尊重しつつ、崩壊しないように教会を修復・再建せよ」という任務が与えられました。

 

それまで中世の建築技術の体系立った研究は行われておらず、修復を専門に学ぶ学校もなかったため、デュクの任務は困難を極めました。それに建造当時の建物の設計図もなかったそうです。

 

そんな中でもデュクは、建物が崩壊し始めた原因となった構造的欠陥を把握し、構造補強を行いながら修復していきます。

 

構造を安定させるために屋根を軽くしたり、アーチを新設したり、時には独自の解釈を反映させて形を変えたりしました。

 

決して元の建物に忠実な修復ではなかったため、賛否両論が沸き起こりましたが、デュクのこれらの改造がなければ屋根は自重で崩壊していたという見方が有力で、ロマネスク期の教会建築の傑作を現存させた功績は疑うべくもないでしょう。

 

ノートルダム大聖堂

 
デュク
 

ノートルダム大聖堂はフランス革命の激動を経て廃墟と化していました。

 

1844年、若干30歳のデュクはノートルダム大聖堂の修復コンペを勝ち取りました。

 

彼が手がけたのは主にファサードで、当初の案は控えめなものでしたが、最終的には建物の機能性を重視し、修復開始時にない高さの尖塔や彫刻を加えています。

 

ちなみにノートルダム大聖堂が建設された1250年当時は尖塔はありました。ただ、風害を受けたために1786年に撤去されていました。

 

これに対しデュクは、風雨に耐えられるように改良され、さらに元のものよりも高く、彫像で装飾された尖塔を新しく設計・建設したわけです。

 
デュク
 

◯伝統を生かすための革新

デュクは晩年、建築史に関する執筆活動にほとんどの時間を費やしました。

 

彼は特に鉄などの新素材の使用や、様式ではなく、機能に合わせた建築を設計することの重要性を説いており、近代建築運動の先駆けとも言える理論を提示しました。

 

修復の定義について「建物を修復するということは、それを維持することでも、修理することでも、作り直すことでもない」であるとし、それには

 

1.「再構築」・・・図面や写真、考古学的な記録によって科学的に記録され、その正確さが保証されていること。

 

2.モニュメントの外観や効果だけでなく、その構造も含めて行われなければならないこと。建物の寿命を長く保つために、より頑丈な材料を使用するなど、最も効率的な方法を用いなければならないこと。

 

3.明らかにオリジナルに反する修正は避けなければならないが、構造はより近代的、合理的に改良しうること。

 

4.建物の安定性や保存性を損なうもの、または歴史的存在の価値を著しく侵害するものを除き、建物に施された古い修正を保存しなければならないこと。

 

の4つの条件が必要であると説いています。

 

デュクの建築理論は、特定の素材の理想的な形を見つけ出し、その形を「正直に」建築に活かすことに基づいています。

 

建築物の外観には、その建築物の合理的な構造が反映されるべきだと考えていました。

 

その結果、例え外観が非対称になったとしても、それはそれで良く、逆に古典主義の建築のように外観のシンメトリーを気にしすぎて、家の住人にとっての実用性や利便性を犠牲にした建築は虚しいと断じていました。

 

当時としてはかなり前衛的な建築思想を持っていた建築家と言ってよいでしょう。

 

常にオリジナルとの比較に晒される修復という仕事。オリジナルを生かし続けるために、オリジナルに軸足を据えつつも、時にはそれを越えていくマインドが求められる。

 

それがデュクの哲学であるように思いました。

 

彼のような「建物の命を繋いでいく建築家」のお陰で、今日の私たちも歴史建築の変わらぬ美しい姿を目にすることができるのです。

 

以上、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)からでした。

 
デュク
 

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