建築史シリーズ ルネサンス建築
弊社、大禅ビルが行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。
そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、
そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。
とは言え、私は専門的にデザイナーとしての教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。
本物のデザイナーというのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものだと思っています。
このシリーズではそうしたデザイナーたちが紡ぎ上げてきた建築の歴史を中心にご紹介していきます。
◯フィレンツェ発の建築潮流
今回ご紹介するのはルネサンス建築。
ルネサンス建築は、イタリアのフィレンツェで1420年代に始まり、17世紀初頭まで続いた建築様式です。
古典古代を理想とし、ローマ建築の構成を古典主義建築として理論づけた点が特徴です。
ルネサンス建築にはじまる古典主義建築の系譜は、後のバロック建築・新古典主義建築を通じて継承され、モダニズム建築まで西欧建築の主流を形成していきます。
15世紀、ヨーロッパでもっとも豊かな都市に成長したフィレンツェからルネサンス建築がはじまります。
商業活発化でゆとりが生まれ、深い教養を身につけた商人・貴族たちは文化運動を率先しました。
そこで彼らは、古代ローマから古典文化を再発見します。
古代ローマを範とするものの、神殿や浴場といったローマ建築をそのままコピーしても、
ルネサンス期の教会や邸宅などの建築ニーズに応えられないので、古代ローマ建築の理論・理性を抽出し、換骨奪胎できる建築家が必要とされました。
◯ルネサンス建築の特徴
ルネサンス建築の特徴は3つ挙げられます。
一つは古代モチーフのであるオーダー(柱)の復活でした。
ルネサンスでは、整数比や音楽的比例、規則性のあるものが理想とされました。
古代遺跡とウィトルウィウスの『建築書』から、「オーダーが調和と比例のシステムにある」と明らかになったことも理由のひとつです。
つまり、オーダーは美の根源であり、新しい建築を構成する要素として至適であると考えられたのです。
二つ目の特徴は比例と調和の美。
全体のプロポーションがオーダーの比例に依拠する点です。
例えばパラッツォ・ルチェルラーイを見ますと、コーニス(軒と壁の頂部に帯状に取り巻く装飾)で水平ゾーンがまず生まれます。
次に、オーダーのピラスター(壁付きの平たい柱)で垂直ゾーンに区分されます。
さらに、各階のプロポーション·窓の配置はオーダーの原理にしたがっています。
これらは、まさにコロッセオの研究成果でした。
ルネサンス建築では装飾のオーダーとそこからなる比例寸法で水平垂直に区分し、調和の美を生み出しました。
三つ目の特徴はバシリカ式+集中堂式。
天を象徴する円、完全な形の正方形や正多角形といった図形は人間の理性、宇宙の構成と調和し、教会堂にふさわしいと考えられました。
しかし、実際にはバシリカ式(長方形の平面を持ち、内部に採光用の高窓と列柱のアーケードを持つ様式)の方が典礼に向いています。
その難題に答えたのがカトリック世界最大規模の教会、ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂です。
圧倒的な迫力と奥行き、光降り注ぐ巨大ドームの中心性をもつサン・ピエトロ大聖堂の内部にはオーダーが使用され、エンタブラチュアで水平軸が強調されています。
天井はヴォールトとドーム。
大ドームと四つの小ドームの下にギリシア十字式プランが展開します。
ミケランジェロら天才建築家たちが関わったこの作品は、後期ルネサンスの傑作となりました。
ここに現れたのは中世社会と決定的に異なるもので、神に加えて人間も中心であるというルネサンスの理想でした。
◯ダ・ヴィンチが描いた理想都市
ではフランスのルネサンス建築はどうだったでしょう。
例えばシャンボール城には、 二重らせん階段があります。
2つの階段を使えば、相手に出会うことなく3階まで昇り降りができるこの構造は、近代以前の建造物としてはかなり希少な存在です。
城主であるフランソワ1世と親交があったことから、この階段の設計にレオナルド・ダ・ヴィンチがかかわったとされています。
さらには、ダ・ヴィンチが構想していた「理想都市」の一部を実現させたものともいわれています。
ダ・ヴィンチはルネサンスを代表する画家で、さまざまな発明をした科学者として知られていますが、その具体的な内容は『手稿』の中に垣間見ることができます。
この『手稿』とは、ダ・ヴィンチが遺したノートやスケッチのことで、現存するものだけで10冊以上あります。
内容は、絵画や数学、解剖、機械工学など多岐の分野にわたり、その中に「理想都市」に関する記述も含まれていました。
ダヴィンチが構想した理想都市は上の道、地上の道。地下の水路と三層構造になっており、水路は船による運搬路としての利用が想定されていました。
1484~1485年に他の都市の例にもれず、ミラノでも疫病であるペストが大流行しました。
人口過密による不衛生な環境がその原因と考えられ、ダ・ヴィンチはこの問題を解決するアイデアを『手稿』の中に記したのです。
まず道路の役割を2つに分けました。
一つは地上に設置される道路で、住宅の裏庭や台所に通じ、荷車や他の運搬車のためのもので、
もう一つは、地上3.6メートルの高さに設置され、住宅の2階の客間に通じ、人々のためだけに使われる道路としています。
そしてさらに、その下の地下空間に水路を張り巡らせ、汚物やゴミ等を水で洗い流せる構造としたのです。
20世紀に整備された近代都市計画のような画期的なアイデアを、その400年以上前に発想していたことになります。
このように「道を分ける」ことで街の機能を確保しようとしたダ・ヴィンチは、過密状態の住居を解決するためにも、そのアイデアを適用しようと考えました。
彼は4階建てのビル風の建物を想定し、四つの入口と四つの階段を設け、それぞれの階段をらせん状に設置することで、各階の住戸に独立性を保ち、過密状態でも快適で衛生的な生活ができるとしたのです。
ルネサンスの時期には建築家や科学者らが理想都市を構想しましたが、その多くはユートピアとして描かれるものがほとんどでした。
その中にあって、ダ・ヴインチは確かな科学的知見と合理性を持ち合わせていたといえるでしょう。
理想都市はその壮大さもあり、実現することはありませんでしたが、シャンボール城の二重らせん階段は、ダ・ヴィンチの理想都市構想の一部が実現した、唯一の建造物といい伝えられています。
◯ルネサンス様式へのアンチテーゼ
15世紀に興ったルネサンスは、古代ローマ建築を範とし、西洋中に一大ブームを巻き起こしました。
しかし16世紀に入ると、人々はルネサンスに対して反感や違和感、退屈感などを抱くようになり、その安定感を崩していこうとする新しい手法が模索されました。
この手法をマニエリスムと呼びます。
マニエリスムの大きな特徴の一つが、様式を変形したり、規範を逸脱したりする表現です。
その特徴がよく表れているとされるのが、イタリア北方マンドヴアに建てられた、パラッツオ・デル・テです。
当時のマントヴァはマントヴァ侯国という君主国でしたが、小さな国だったので政治的に不安定であり、知的で芸術的な成果を国外に向けて示す必要がありました。
当時の君主、フェデリーコ2世・ゴンザーガの命を受けて設計を行ったのが、その後ゴンザーガ家のお抱え芸術家となった、ジュリオ・ロマーノでした。
彼の設計する邸宅は、一見すると整然とした中庭を持つ古典的な様式ですが、細部を見ていくとさまざまな逸脱が見て取れます。
ルネサンスが飽きられつつある時代に、ロマーノの様式からの逸脱は芸術的価値が高いと評価されました。
以上、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)からでした。