デザイナーたちの物語 ヨーン・ウッツォン

弊社、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)が行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。

 

そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、

 

そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。

 

とは言え、私は専門的にデザイナーとしての教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。

 

本物のデザイナーというのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものです。

 

■シドニーのオペラハウスを作った男

さて、今回ご紹介するのはデンマークの建築家、ヨーン・ウッツォン。

 
ウッツォン4
 

シドニーのオペラハウスを設計したことで知られ、建築と照明のデザインにおいて北欧モダンを代表する世界的な建築家でありデザイナーです。

 

ウッツォンは造船技師の息子としてコペンハーゲンで生まれ、父の仕事の影響か、幼い頃は船や海軍の仕事に興味を持つようになったと言います。

 

芸術への関心の高さから、1937年からデンマーク王立芸術アカデミーに入学。卒業後は建築家に師事しながら、世界各地の伝統的な建築手法を学んでいきます。

 

ウッツォンのインスピレーションの源泉は古代遺跡でした。

 
ピラミッド
 

1947-49年にかけて、ウッツォンにはヨーロッパ、モロッコ、アメリカ、メキシコを旅し、ピラミッドやマヤ遺跡に深く感銘を受けました。

 

なかでも神に近づくために空に向かって建てたマヤ遺跡に魅了され、

 

「メキシコでの時間は私の人生で最も偉大な建築体験の一つだった」

 

と語っています。

 
マヤ遺跡
 

1957年に中国、そして日本にも訪れ、インテリアとエクステリアの相互作用について多くの示唆を得て、それらが後の作品を構成する要素になっていきます。

 

ウッツォンはデザインにおいて造形、素材、機能の統合を図り、自然と調和させていく思想を重視していたと言われており、

 

だからこそ自然に生き、自然との距離が現代よりも遥かに近かった古代の建築が彼の心を捉えたのかもしれません。

 

■機能性と自然の美の融合

建築様式の潮流で言えば、ウッツォンはモダニズム建築に対するアンチテーゼとして生まれたポストモダン建築に数えられます。

 

モダニズム建築以前のバロック様式などに代表される古来伝統な西洋建築では、重厚な石や華麗な装飾が美の表現の主流でしたが、

 

近代に入ってから合理性と機能性にこそ建築の美が宿るとするモダニズム建築が持て囃され、

 

空間の自由度が高いシンプルで直線的な構造、採光に優れた広い窓、機能性と合理性に寄与しない装飾を省くといった率直なデザインが好まれました。

 
コルビュジエ11
 

そのモダニズム建築の機能主義に対して、装飾性、折衷性の回復を目指したのがポストモダン建築で、ちょうどウッツォンが世に出る1960年頃から流行するようになります。

 

ウッツォンの代表作であるシドニーのオペラハウスも、単純な機能性を超えて、風という自然の躍動の美をコンクリート建材から表現として引き出しています。

 

■予想外のコンペ優勝

シドニーのオペラハウスは20世紀で最も重要な建築の一つに数えられています。

 
ウッツォン4
 

シドニーの港に停泊する2隻の帆船のようなこの建物は、造船家を父親に持つというウッツォンの出自が作風に反映されているようにも見えますね。

 

1957年、彼はオーストラリア・シドニーに建設される予定のオペラ・ハウスの建築設計競技に応募し、予想外の勝利を収めました。

 

実は彼が提出した設計案は正式な図面ではなく、アイデアを書き留めた程度のスケッチに過ぎないものだったので応募基準に合わず、一旦落選していたんですね。

 
ウッツォン7
 

しかし、審査委員だった建築家エーロ・サーリネンが、コンクリート・シェル構造の自由な造形で建物を覆うアイデアを「天才的であり、これ以外にない」と評し、最終選考で復活させたと言われています。

 

それまでウッツォンは6つの建築コンペで優勝したことがあったのですが、オペラハウスは初めての海外プロジェクトであり、これによって世界の建築界に鮮烈なデビューを飾りました。

 

以後数年間、ウツソンはオペラ・ハウスの設計と建設の指揮に取り組みます。

 

が、これが難航しました。

 

■どうやって建てればいいんだ?

ウッツォンがオペラハウスで用いたシェル構造はコンペが行われた 1956年当時、ようやく本格化したばかりの技術でした。

 

ウッツォンを引き上げたエーロ・サーリネンはシェル構造で有名な建築家でしたが、その彼をもってしてもこれほど複雑なものは未経験で、

 

そのため最初はウッツォンの設計をどうすれば建設できるのか分からない状態だったそうです。

 

構造コンサルタントの知見も入れながら、当初のコンセプトにあった2つの大ホールを覆う巨大な楕円形のコンクリート・シェルのデザインに大幅な変更を加え、

 

現在のような同一の球体の一部を取り出して組み合わせた形に変えることで、不可能とされたコンクリート・シェルの建設をようやく実現にこぎつけることができたのです。

 
ウッツォン4
 

それでも完成までに20年近くかかったわけですが。

 

■政治家からの横槍、そして辞任

オペラハウスが竣工する時、ウッツォン既に建築士の任を外れていました。

 

理由は予算超過と工期延長です。

 

1965年半ばにオーストラリアで政権交代が行われ、自由党であるロバート・アスキンが当選します。

 

アスキンは就任前からこのオペラハウスプロジェクトを声高に批判して、さらに当時の公共事業担当大臣であるデイビス・ヒューズも同じく反対の立場を取り、

 

プロジェクトのコスト、スケジュール、さらにウッツォン本人の能力に対しても疑義を呈し、建設費の支払い拒否という強硬な態度を打ち出します。

 

ウッツォンと新政権との対立は誰の目から見ても避けられないものでした。

 

結局ウッツォンは辞任し、シドニーのオフィスを閉鎖します。

 

生涯オーストラリアに戻ることはないと心に誓ったそうです。

 

■40年越しの名誉回復

オペラハウスはウッツォンの後を引き継いだ建築家チームの手で完成され、1973年にオープンしました。

 

残念ながらウッツォンは式典に招待されることもなく、彼の名前が言及されることもありませんでした。

 

しかし2000年になって、オペラハウスの内装を再デザインする際に彼の名が上がり、設計当初の内装案をレセプションホールで実現することができたのです。

 
ウッツォン4
 

40年越しに念願叶ったウッツォンは次のように述べています。

 

「このような素晴らしい形で私の名前が挙がったことは、私にとって最大の喜びと満足感を与えてくれました。

 

建築家としてこれ以上の喜びはありません。

 

私が今までに得てきたどんな種類のメダルにも勝るものです」

 

2003年、ウッツォンは建築界のノーベル賞とも言われているプリツカー賞も受賞しました。

 

審査員の一人は

 

「ウッツォンは、時代の遥か先を行く、利用可能な技術の遥か先を行く建築物を作り、非常に悪質な宣伝や批判の中でも粘り強く、国の顔となるような建築物を作り上げました」

 

と最大級の賛辞を送っています。

 

シェル構造の可能性を切り拓いたシドニー・オペラハウスは20世紀を代表する偉大な建築として、2007年には世界遺産に登録されました。

 

生前の建築作品でこのような評価を受けたのは世界で2人目です。

 

■インスピレーションはオレンジの皮むきから

オペラハウスの帆のような造形は球体から切り出した形で、工場生産されたプレキャストコンクリートを使用しています。

 

表面には釉薬が塗られているタイルと塗られていないタイルの2種類が貼り分けられおり、立体感が出るような作りになっています。

 

また大小1つずつあるホールは、それぞれ基壇部から12度、9度傾いています。細かな角度の変化によって、なびく大小の帆たちが全体として美しく調えられています。

 

このように精緻なこだわりの基礎に立つオペラハウスのデザインも、実はオレンジの皮むきというシンプルな動作に触発されたもの。

 
オレンジ
 

一人のデザイナーのセンスによって、何気ない日常の美から偉大な作品が表現され、今やオーストラリアと言えば多くの人が思い浮かべるシンボルとなっています。

 

この連なりになんとも言えぬ不可思議さを私は感じますね。

 

既に故人となられたウッツォンですが、彼が遺した作品はこれからも数多の人の目に感動を与えていくことでしょう。

 

以上、大禅ビルからでした。

 
ウッツォン5
 

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