建築史シリーズ モダニズム建築
弊社、大禅ビルが行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。
そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、
そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。
とは言え、私は専門的にデザイナーとしての教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。
本物のデザイナーというのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものだと思っています。
このシリーズではそうしたデザイナーたちが紡ぎ上げてきた建築の歴史を中心にご紹介していきます。
◯モダニズム建築の始まり
今回ご紹介するのは「モダニズム建築」です。
モダニズム建築は、20世紀以降、世界中の都市を埋め尽くすかのように広がった建築潮流です。
その原型となったのがデッサウのバウハウス。
1900年代初頭のドイツでは、機械生産による国際競争力の強化を優先していました。
品質向上と工業生産に合う造作理念実現のため、ドイツエ作連盟が1907年に設立されます。
この流れで、のちにパウハウス初代校長となる建築家ヴォルター・グロピウスは、バウハウス創設前、すでにモダニズム建築の源流のひとつとなるファグス靴工場をつくりあげていました。
工場は効率のよい生産環境が重要という性格上、簡素で実用的であればよく、表面装飾は不要でした。
当時のモダニズム側からなされた主な主張としては
・古典主義を想起させる対称形の平面、立面の禁止
・傾斜屋根、アーチ、ドーム、オーダーなどのモチーフの禁止
・一切の表面装飾の禁止
・平滑な無地の壁画面
・単純な箱型の形態
・単純で経済的な構造
がありました。
◯グロピウスのバウハウスの誕生
バウハウスは1919年のドイツのヴァイマールに創設された学校です。
もともとはアーツ・アンド・クラフツ運動の美術工芸学校の流れを汲むものでした。
そのためバウハウスは、「建築、彫刻、絵画を一体として包含した未来の新建築の考案と創造」という、ドイツの工作連盟より美術工芸運動の思想に近い理念をもっていました。
しかし、経営難となり、大量生産のデザインへ舵を切るようになります。
つまり、ドイツ工作連盟がめざした軌道に復帰することとなったのです。
そして、ついにグロビウスは機能主義へと絞り、ヴァイマールのバウハウス校長室には白と直角の美学が徹底され、シャープなモダニズムの理想が現れます。
バウハウスは白い箱に連続窓のスタイルを世界中に広げるプロトタイプとなりました。
背景にはまず産業革命によって始まった科学技術の時代によって、歴史と伝統文化に依拠する歴史主義の空洞化がありました。
この潮流に対し「これではいけない」と、忘れて去られていたゴシックや古代ギリシア、ローマのリバイバル、あるいは異国のスタイルまで、「古き良きデザイン」工匠や建築家たちは手当たり次第に取り込むような流れも出てきます。
しかし、そのうち過去の様式すら参照し尽くされ、ついに行き詰った建築家たちは、人間の感受性そのものの中を探り始めました。
具体的には、植物からアール・ヌーヴォー、鉱物からアール・デコ、幾何学からデ・ステイル、そして数式から無国籍デザインとも言えるモダニズム建築が生み出されたわけです。
◯アーツ・アンド・クラフツ運動とは?
産業革命以降、労働者たちは工業製品を均一かつ迅速に大量生産していきました。
便利にはなったものの、これまでの職人たちのような経験·知識からなる美意識や教養は希薄で、手仕事ならではのよさはなくなってしまいました。
そんな中、ウィリアム・モリスという詩人・デザイナーが登場します。
オックスフォードからロンドンに移住してきた彼は、市販の家具備品に自分が好む、手仕事の温もりが感じられる商品がないことに驚きます。
置いてある商品はほとんど、「使えればいい」という機能性、効率性重視のものばかり。
「ないなら自分でデザインしよう!」
そう思ったモリスは、多岐にわたる運動を展開します。
古い建築の保存と修復に取り組むために古建築保護協会を立ち上げたり、モリス商会を設立し、家具、ステンドガラス、装飾彫刻、タペストリーなど手工芸を販売したり、さらに出版・講演活動にも精を出します。
彼の活動に芸術家・工芸家らの支持が徐々に集まり、アーツ・アンド・クラフツ運動として結実していったのです。
これは中世的な共同体による手仕事を活かし、デザインの本質を問いながら生活空間全体の調和を考える運動でした。
◯赤い家
モリスたちのアーツ・アンド・クラフツの思想を体現した作品が「赤い家」です。
設計したのはモリスと生涯の友情で結ばれていたフィリップ・ウェッブ。
当時流行していた住宅は、箱型で白、あるいはクリーム色のスタッコ仕上げでした。
しかし赤い家は、赤レンガの外壁に非対称の平面と窓で温かみのある表情を見せています。
モリスらは、中世風の素朴さと誠実さを尊重したユートピアを構想・展開し続けていきます。
この流れが19世紀末から20世紀にかけて、田園都市という考え方を生みました。
さらに、芸術のあり方を追求するエネルギーが、アーツ・アンド・クラフツ運動から後のアール・ヌーヴォー様式へと昇華されていきました。
産業革命以降の19世紀後半では、新たに生まれた中産階級の台頭もアーツ・アンド・クラフツ運動を後押しする背景となりました。
というのも、新興階層である中産階級は、作りたい建物を作ることができる財力を持っていたからです。
彼らの発注によって、建築家たちが住宅を設計する機会に恵まれました。
さらに、アーツ・アンド・クラフツは産業革命による便利な機械がありながら手仕事にこだわったため、イギリス工芸品の品質を高め、貿易を有利に導いた経済的なメリットもありました。
◯ミース・ファン・デル・ローエが実現した究極の空間
モダニズム建築はバウハウスによって極められたと思われましたが、これをさらに前進させた建築家がいました。
ミース・ファン・デル・ローエです。
石工の息子として生まれ、建築教育を受けずに製図工として働きながら設計を学び、後にバウハウス3代目校長に就任した近代建築の巨匠です。
建築家としてキャリアを開始した直後のミースは、新古典主義を纏っていましたが、徐々に画期的な計画案を発表し、アバンギャルドとして認知されていきます。
1922年に発表した「コンクリートのオフィスビル案」では、均一なガラスの被覆と外壁が何重にも積層されており、きわめて均質で、あらゆる機能を許容する普遍性をもったユニバーサルスペースの空間理念が提示されています。
彼の代表的な実作が「バルセロナ博覧会ドイツ館」です。
通称バルセロナパヴィリオンと呼ばれ、壁も柱もぎりぎりそぎ落とし、床から天井までのガラスがはめこまれています。
全く何もない空間こそが抽象性の極点であり、多くの人々に衝撃を与えました。
その後のファンズワース邸では間仕切り壁をなくし、部屋の概念まで解体してしまいます。
何もない空間は可変性をもち、家具でレイアウトすれば自由自在に必要な場所をつくり出すことができるようになりました。
新国立ギャラリーでは、これまでで最大規模のユニバーサルスペースとなりました。
まるで無限に広がる空間の一部にガラスの仕切りが舞い降りてきたかのような表現です。
建築から大地も、壁·窓の差も、内外の境界も、左右も消え失せ、まるで数式の座標のような究極の均質空間。
ここで、近代建築は一つのゴールに到達したとされました。
以上、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)からでした。