デザイナーたちの物語 ミース・ファン・デル・ローエ
弊社、大禅ビルが行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。
そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、
そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。
とは言え、私は専門的にデザイナーとしての教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。
本物のデザイナーというのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものだと思っています。
◯Less is more
今回ご紹介するのはミース・ファン・デル・ローエ。
近代建築の三大巨匠の一人であり
「Less is more (より小少ないことは、より豊かな)」や「God is in the detail (神は細部に宿る)」
といった名言で知られています。
ミースは1886年、ドイツのアーヘンに生まれました。
父親の石材店や地元のデザイン事務所で働いた後、ベルリンに移り、インテリアデザイナーのブルーノ・パウルの事務所に入社します。
1908年から1912年までピーター・ベーレンスのアトリエで見習いとして、建築家キャリアをスタートさせます。
そこで現代デザイン理論に触れ、そして知遇を得てル・コルビュジエやヴァルター・グロピウスと一緒に仕事をしました。
1912年、ベルリンで事務所を開設、独立を果たしますが、3年後に第一次世界大戦で兵役についたため、設計活動を中断します。
1930年にはあのバウハウス3代目校長に就任し、バウハウスの発展にも関わっています。
しかし、バウハウスはナチスによって閉鎖され、ミースはアメリカに亡命するのでした。
ワイオミング州で住宅の仕事を引き受けながら、その後、シカゴに新しく設立されたイリノイ工科大学の建築学科の主任に就任します。
そこで彼は、後に第二シカゴ・スクールとして知られる新しい教育を導入し、その後の数十年間、北米とヨーロッパで大きな影響力を持つようになったのです。
◯「ユニバーサル・スペース」に込められた思い
第一次世界大戦後、ミースは伝統的な新古典主義住宅の設計を続けつつ、並行して実験的な取り組みを始めました。
現代の工業化時代にも適した新しい様式を模索していきます。
彼はアメリカの充実した建設技術を背景に、新しい素材がもつ可能性について本格的な追求をスタートさせます。
内部空間を構造から解放し、さまざまな機能を許容する「ユニバーサル・スペース」のアイデアや、ファサードに現れた極限的に単純なディテールこそ、彼の求める表現でした。
「ユニバーサル・スペース」は、古代ヨーロッパの古典的な建築様式を復刻させる社会的な潮流(歴史主義)に対抗するものとして一般的には解釈されています。
しかし、戦争というミースの苦しみの経験から考えてみますと、「ユニバーサル・スペース」とは、単に内部空間の用途や機能を限定せず、自由に使えるようにしただけのものではなく、
過去の思想や慣習にとらわれることない、皆が平等に生きられる社会を建築空間を通じて実現しようとした試みだとも言えます。
◯モダニズム建築の到達点へ
ここでいくつかミースの作品をご紹介します。いずれも傑作と言われています。
「バルセロナ・パビリオン」です。
1929年に開催されたバルセロナ万博ドイツ館の復元です。
トラバーチンの基壇にクローム合金で覆われた十字形の8本の柱を建て、1枚の鉄筋コンクリートの屋根スラブを支えています。
天井いっぱいの高さのガラスと、大理石、鉄といった多種の素材は、流動的かつ多様な空間をつくり出しています。
「イリノイ工科大学クラウンホール」。
イリノイ工科大学建築科の学舎です。1階床は地上より1.8mほど高く、半地下の工作室にも採光が確保されている設計となっています。
「ヴァイセンホフ・ジードルンク」
1926年にドイツエ作連盟副会長に就任したミースによる集合住宅です。
コルビュジエやグロピウスら、当時の著名建築家総勢17名が参加。
その中でミースは鉄骨造4層のアパートを設計し、可動間仕切りで生活の多様性に応える空間を創り上げました。
「シーグラム・ビル」
ニューヨークにありながら、敷地手前に広いプラザをもつ40階建のビル。
外観には、視覚効果と耐久性からブロンズが採用されています。
◯代表作・ファンズワース邸
ファンズワース邸は、ミースの最も有名な作品の一つに数えられます。
機能的な要求の少ない、自然の中の週末住宅であるがゆえに、住まいというよりは建築を抽象的に表現したパビリオンのようでもあります。
地面から持ち上げられた広いエントランスポーチは、ファンズワース邸全体の3分の1を占めています。
玄関を抜けてガラスの家に入ると、中央のトイレを囲む壁以外はワンルームで、まるで自然のなかに浮かんでいるように周囲の景観を楽しむことができます。
また、ガラスと鉄という人工素材で直線的に構成されていながら、外観もまた見事に自然と調和しています。
ただ、ここで長期間暮らすことはなかなか難しい。
施主のファンズワース夫人は、週末住宅とはいえそこに住むことを希望していたため、住むにはさまざまな不備のあるこの住宅に対して苦情を訴えました。
一方、孤独を愛したミースは具体的な「住まい」には関心がなく、彼が設計したかったのは抽象的な「家」の概念でした。
工事費と工期超過でミースは施主から訴えられ、「家」の原型を極めたこの住宅は、ミースが手掛けた最後の個人住宅作品となりました。
◯孤独から生まれた美
ミースは人生の最後の20年の間に、近代の個人に自己実現の場を提供するという彼の目標を反映した記念碑的な「皮と骨」の建築ビジョンを発表し、
最小限の存在感を持つ構造の中から、自由で開放的な空間を創造しようとしました。
ミースの作品は絶大な影響力と批評家の評価を得てきましたが、彼の死後、そのアプローチは様式としての創造的な力を維持することができず、1980年代までにポストモダニズムの新しい波に押し流されてしまいます。
ポストモダニズムの建築家、支持者たちは「少ないものはつまらない」と謳い、ミースの建築はそれこそ簡単に真似できると思われましたが、
彼が手掛けた美は結局誰にも真似し得ず、例え真似されたとしてもセンスに欠ける建築物となってしまうものがほとんどでした。
ミースは、彼の設計理念を継承できる建築家の教育を重視し、イリノイ大学での建築カリキュラムの指導に多大な時間と労力を費やしましたが、
自分が求める質に見合うものを誰も作れないと見た時、彼は自分の教育方法がどこで間違っていたのかと悶々としたそうです。
ミースは1969年に喫煙による食道癌のため亡くなりました。
寄せ付けない、真似を許さない。
故にミースも、彼の作品も、孤独であり、孤高な美を湛えているのかもしれませんね。
以上、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)からでした。