デザイナーたちの物語 ミケランジェロ・ブオナローティ

弊社、大禅ビルが行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。

 

そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、

 

そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。

 

とは言え、私は専門的にデザイナーとしての教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。

 

本物のデザイナーというのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものだと思っています。

 

◯人類史上最高の芸術家の一人

今回ご紹介するのはミケランジェロ・ブオナローティ。

 
ミケランジェロ
 

言わずと知れた、西洋芸術の神です。

 

最盛期のルネサンスとマニエリスム期の2つの時代を代表する偉大な芸術家であり、彫刻や絵画だけでなく、建築も含めたさまざまな芸術分野において活躍しました。

 

代表的な作品には、30歳前に制作した「ピエタ」と「ダヴィデ」の2つの有名な彫刻作品。

 
ミケランジェロ_ピエタ
 
ミケランジェロ2
 

システィーナ礼拝堂の天井に描かれた「創世記の場面」、祭壇の壁に描かれた「最後の審判」。

 
ミケランジェロ_システィーナ
 
ミケランジェロ_最後の審判
 

いずれも西洋美術史上最も影響力のあるフレスコ画です。

 

ミケランジェロはしばしば同時代の芸術家たちから畏敬の念をもって「神のような存在」と呼ばれていました。

 

後に続く芸術家たちがミケランジェロの情熱的な作風を模倣しようとした結果、ルネサンスに次ぐ西洋美術の主要な運動であるマニエリスムが形成されていったのです。

 

◯大理石を愛した少年

ミケランジェロは1475年3月6日、トスカーナ州アレッツォ近郊の小さな町、カプレーゼで生まれました。

 

彼の父親はフィレンツェの銀行家でしたが、経営破綻したために短い間、役人の仕事に就いていました。

 

ミケランジェロが生まれてから数ヶ月後、一家はフィレンツェに戻り、ミケランジェロはそこで育てられました。

 

父親は大理石の採石場を農場を所有していましたが、幼いミケランジェロは採石場で大理石への愛を育んでいったのかもしれません。

 

少年時代のミケランジェロは学業には興味を示さず、教会の絵画を模写したり、他の画家との交流を好む性格だったようです。

 

1490年から1492年にかけて、ミケランジェロはメディチ家によって設立された人文主義のアカデミーであるプラトニック・アカデミーに通いました。

 

メディチ家当主であるロレンツォ・デ・メディチより芸術の才能を見出され、庇護を受けたのです。

 

 

フィレンツェの街は当時イタリア最大の芸術の中心地で、有望な芸術家は町議会やギルド、メディチ家や銀行家などの裕福な後援者によって支援されていました。

 

この時ミケランジェロは「階段の聖母」と「ケンタウロスの戦い」のレリーフを彫刻しています。

 

庇護者であるロレンツォ・デ・メディチの死後、ロレンツォの相続人であるピエロ・デ・メディチがミケランジェロに彫刻を依頼し、彼は再びメディチ家の宮廷に仕えたのです。

 

◯ミケランジェロ建築の代表作

ミケランジェロには別の人が始めた計画を引き継いだ建築物も多く、それらの中でも最も有名なのがブラマンテ、ラファエロらの作業を受け継いだサン・ピエトロ大聖堂や、

 

建物と空間とで明快に表現されたカンピドリオ広場、サン・ロレンツォ大聖堂付属のメディチ家礼拝堂など多々あります。

 

その中から彼の代表作をいくつかご紹介します。

 

ラウレンツィアーナ図書館

 
ミケランジェロ_図書館2
 

メディチ家の蔵書館であり、 閲覧室に通じる前室が設えてあります。

 

幅奥行き10m、高さ15mと縦に長い空間であり、図書館全体の細長く低い静かな空間との対比がなされています。

 

光や風を通すことのない装飾的な盲窓、壁にめりこんだ柱、部材を支持しない持ち送り、さらに白色のスタッコ壁と灰黒色の建築部材という2色構成が特徴的です。

 

マニエリスム的で自由な空間が創出されており、フィレンツェにおけるミケランジェロ建築作品の初期代表作の一つです。

 

カンピドリオ広場

 
カンピドリオ広場
 

ローマのカンピドリオの丘の上にある広場です。

 

高揚感を喚起するアプローチの大階段、広場中央の騎馬像、広場を取り囲む建物が軸線上に統合されており、動的な様相を呈するバロック広場のあり方を切り拓いた作品です、

 

メディチ家礼拝堂

 
ミケランジェロ_メディチ
 

ミケランジェロはメディチ家礼拝堂の設計も手がけています。

 

メディチ家礼拝堂は「君主の礼拝堂」と「新聖具室」で構成され、内部にはメディチ一族に捧げられた記念碑があります。

 

ミケランジェロはこの礼拝堂の完成を見ずにフィレンツェを離れており、礼拝堂は最終的にミケランジェロの弟子たちの手によって仕上げられました。

 

メディチ家の墓所としても使用されている新聖具室の入り口には、壁際にロレンツォとジュリアーノのメディチ家兄弟の墓所として用意された2つの霊廟があります。

 
ミケランジェロ_メディチ
 

ミケランジェロが彫刻と内装計画の両方を担当した仕事の中でも、サン・ロレンツォ大聖堂メディチ家礼拝堂の聖具室は、ミケランジェロの彫刻と建築の才能が総合的に発揮された代表作と言えます。

 

サン・ピエトロ大聖堂のドーム

 
ミケランジェロ_サン・ピエトロ2
 

サン・ピエトロ大聖堂はバチカン市国にあるカトリック教会の総本山。

 

キリスト教の教会建築としては世界最大級の大きさを誇ります。

 

この建設にもミケランジェロが関わっていました。

 

サン・ピエトロ大聖堂はブラマンテ設計のもと1506年に着エされましたが、ブラマンテの死後、主任建築家が数度変更され、1546年にミケランジェロが後継者に任命されました。

 

ミケランジェロはブラマンテの設計に戻り、基本的な形と概念を維持しつつ、よりダイナミックで統一された全体を作るために設計を単純化・強化しました。

 

ドームは半球形ではなくやや卵形にデザインされ、高いドラム(円筒状の石材)に載せられ、より動的な演出を作り出しています。

 

こうした設計は続くバロック時代の予感させるものでもありました。

 

このようにミケランジェロは、ルネサンス、マニエリスム、バロックと一歩先の時代の変化を己の感性で切り拓き、芸術で表現してきたアーティストなのです。

 
ミケランジェロ
 

2007年12月7日、ミケランジェロが生前に描いた最後の作品と思われるサン・ピエトロ大聖堂のドームの赤チョークのスケッチがバチカン公文書館で発見されました。

 

ミケランジェロは生きているうちは設計図を破棄していたため、非常に珍しい発見と言えます。

 

◯本物の建築はいつまでも残し、生き続ける

ミケランジェロは1564年に88歳でローマで亡くなりました。

 

彼の遺体はローマからサンタ・クローチェ大聖堂に運ばれ、サンタ・クローチェ大聖堂に埋葬されました。愛するフィレンツェに埋葬されたいという巨匠の最後の願いを叶えるために。

 

大禅ビルのようなレトロオフィスビルとはジャンルが違い過ぎるので、単純には比べられませんが、

 

それでもミケランジェロの建築は数百年にわたり、今なお人々の生活の中で生きている様を目にしますと、本物の建築とはやはりこのようなものかと感慨を禁じえませんね。

 

以上、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)からでした。

 
ミケランジェロ_サン・ピエトロ
 

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