デザイナーたちの物語 ペーター・ベーレンス
弊社、大禅ビルが行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。
そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、
そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。
とは言え、私は専門的にデザイナーとしての教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。
本物のデザイナーというのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものだと思っています。
◯近代建築の体現者
今回ご紹介するのはペーター・ベーレンス。
モダニズム建築や工業建築の分野の発展に多大な影響を与えたドイツの建築家です。
ベーレンスは20代の時、まず画家として有名になりました。
彼の描いた「接吻」はユーゲントシュティールを代表する作品の一つに数えられています。
30代に入ると磁器やガラス、家具、建築と、その活動の幅を広げていきます。
32歳で手がけた自邸はまだ画家としての作風の延長にありましたが、以降は古典主義、特にロマネスクを代表する教会堂サン・ミニアート・アル・モンテ聖堂とよく似た作品を手がけました。
40代は、当時急成長を遂げた電気設備会社、AEG社と深く関係し、多数の工業製品や工場の設計・デザインを手がけました。
それらはAEGタービン工場を中心に、技術と芸術の統合に成功した最初期の建築として称賛されています。
この時期のベーレンスの興味は、新古典主義で有名なシンケルに向いていたようです。
50代に入ると、アムステルダム派寄りの表現主義へ移りますが、50代の終わりには、いよいよ近代主義の表現を獲得するに至ります。
W・J・バセット=ローク邸は英国最初の国際様式の邸宅となり、ヴァイセンホフ・ジードルンクではミースらとの共演まで果たしました。
古典主義、新古典興主義、表現主義、近代主義など、彼ほど近代建築史を体現する建築家はほかにいないと言われています。
◯産業デザインの先駆けとして
ベーレンスは、1868年、ドイツのハンブルクに生まれました。
1886年から1889年までは、生まれ育ったハンブルクのほか、デュッセルドルフやカールスルーエでも絵画を学び、1890年には結婚し、ミュンヘンに移り住みます。
当初は、画家、イラストレーター、製本職人の仕事をしていました。
1899年、ベーレンスはヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒの招きに応じ、ダルムシュタットに設立されたばかりの芸術家村のメンバーとなりました。
ベーレンスは1901年にユーゲントシュティル様式の自分の家を建て、家具からタオル、絵画、陶器など、すべてをデザインしています。
この家はベーレンスがミュンヘンの芸術界を離れた最初のプロジェクトであり、才能ある建築家であることを示した作品で、彼の人生の転機にもなりました。
1903年、ベーレンスはデュッセルドルフの美術学校の校長に就任し、新しいデザイン教育の方法を開発するなど、改革を成功させます。
1907年、ベーレンスと10人の関係者
ヘルマン・ムテシウス
テオドール・フィッシャー
ヨーゼフ・ホフマン
ヨーゼフ・マリア・オルブリッヒ
ブルーノ・パウル
リヒャルト・リーマーシュミット
フリッツ・シューマッハー
らと12の企業が集まり、ドイツ工作連盟を設立します。
組織としては、アーツ・アンド・クラフツ運動の理念を受け継いでいることは明らかですが、建築的には古典的な傾向を持っていました。
ドイツ工作連盟のメンバーは、日用品や製品のデザインを改善することで、ドイツ全体のセンスを向上させることに注力していました。
この非常に実践的な側面から、実業家、公共政策の専門家、デザイナー、投資家、評論家、学者などの間で非常に大きな影響力を持つ組織となりました。
1900年代初頭の彼の作品には、一連のパビリオン、火葬場、個人住宅などがあり、古典的なインスピレーションの探求するという新しい方向性が示されています。
1907年、AEG(Allgemeine Elektrizitates-Gesellschaft)社はベーレンスを芸術顧問として迎え、AEGのために建てた彼の作品は、彼のポテンシャルを示す最初のものとなりました。
ベーレンスは、ロゴタイプ、プロダクトデザイン、パブリシティなど、企業のアイデンティティ全体をデザインし、歴史上初めての産業デザイナーと言われています。
また、ベルリンの2つの工場跡地に一連の工場建物を設計しましたが、中でもモダニズムの初期の例とされるモアビッツにある1909年のAEGタービン工場は有名です。
その後、フンボルトテインの敷地に4つの新しい建物を設計しましたが、彼はモダニズムを表現するだけでなく、重厚で大胆、古典的で絵のような効果を文脈に応じて表現することにも興味を示しました。
ベーレンスは、AEGの社員ではなくコンサルタントであったため、他のプロジェクトにも自由に取り組むことができ、建築事務所として大きな成功を収めていきました。
AEGタービン工場の直後には、ドイツの改革建築運動の一環として、大胆なモニュメント的な剥き出しの古典的形態の大規模オフィスビルを次々と設計。
1912年に手がけたサンクトペテルブルクのドイツ大使館や、1912年から1914年にかけてハノーバーに建てられたコンチネンタルAGの管理棟などは、この時期の代表的な作品です。
ちなみに、後のモダニズムを牽引する近代建築の三大巨匠であるグロピウス、ミース、コルビュジエが一時期ベーレンスの事務所で共に過ごしています。
第一次世界大戦後、彼の仕事は再び変化し、多くのドイツ人建築家と同様に、レンガ表現主義のテーマとスタイルを探求しました。
1920年から1924年にかけて、フランクフルト郊外のヘキストにあるヘキスト社の技術管理棟の設計と建設を担当し、
工場の染料製品を表すカラーレンガで覆われた高さのあるアトリウムと、時計塔とドラマチックなアーチを持つダーククリンカーレンガの外観は、ドイツにおけるこのスタイルの最も代表的な例の一つです。
1922年、ベーレンスはウィーン美術アカデミーの講師に招かれ、1936年まで建築学校の校長を務める一方、ヨーロッパ中のさまざまなクライアントのために設計を行いました。
1929年、ベーレンスは、かつての学生であったアレクサンダー・ポップと共同で、リンツにある国営のオーストリア・タバックの新工場の設計を依頼されます。
1935年に完成したこの工場は、非常に長い完全に水平でわずかに湾曲したファサードを持つ建物で、ベーレンスが新客観主義のスタイルで設計した最も印象的な作品です。
1936年、ベーレンスはウィーンを離れ、ベルリンのプロイセン芸術アカデミー(現アカデミー・デア・キュンスト)で建築を教えることになりますが、これはヒトラーの特別な許可を得ていたと言われています。
ベーレンスは、ヒトラーのベルリン再建計画にも参加し、アルベルト・シュペーアが計画した有名な南北軸上にAEGの新本部を建てることになります。
◯ベーレンスの代表作
AEGタービン工場
1904年に1,000馬力だったAEGのタービン製品の供給高は、1909年の初めには100万馬力に膨れ上がりました。
その飛躍的な需要の伸びに対応すべく建設されたのがこの新工場です。
奥行き207m(当初は123m)、幅25.6mの巨大な無柱空間と、それよりやや奥行きの短い2階建部分 (左側) からなります。
妻側ファサードは2箇所で曲がる鉄骨フレームの形が反映され、側面のガラス壁やコンクリート壁、上に行くほどに内側に傾いて設置されています。
ダルムシュタット 芸術家村の自邸
ダルムシュタット芸術家村に建設された自邸。
この村は、ドイツのヘッセン地方のダルムシュタットに、政治家や実業家の支持のもと、新しい社会や文化生活の中心となるよう計画されたものです。
ほとんどの建物はヨーゼフ・マリア・オルプリッヒが担当しましたが、この自邸はベー
レンスが手がけました。
以上、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)からでした。