建築史シリーズ プレーリー・キュビズム・未来派

弊社、大禅ビルが行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。

 

そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、

 

そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。

 

とは言え、私は専門的にデザイナーとしての教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。

 

本物のデザイナーというのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものだと思っています。

 

このシリーズではそうしたデザイナーたちが紡ぎ上げてきた建築の歴史を中心にご紹介していきます。

 

◯草原の建築

19世紀末ヨーロッパからの移住者が多かったアメリカでは、コロニアル・リバイバルが主流を占めていました。

 

コロニアル(様式)とは、植民地に移住した人々が、祖国の伝統的住宅形式に、移住先ロビー邸の居間の気候や風土、素材、あるいは環境に合わせて改良したものです。

 

そんな中、フランク・ロイド・ライトという建築家が登場します。

 
ライト9
 

彼は歴史主義の建築には目もくれず、アメリカ独自の住宅を模索し続け、世界中の建築家には大きな影響を与えるプレーリースタイルを生み出しました。

 

プレーリースタイルの特徴は、従来の箱型からの脱却にあります。
居間、食堂、厨房、居室など、建築のそれぞれの空問を相互に貫入させるフローリング・スペースの創出も大発明でした。

 

この構成を生んだことで、外部空間が内部に侵入し、内部空間が外部に流れ出し、また同時につながり合えることになったのです。

 

ライトは浮世絵など日本文化に関心が高く、さらに日本伝統建築の中から、平面の連続的な展開、立面の水平方向への流れるような動き、深い軒をもつ屋根の美しさなど、自らが漠然と探し求めていたものの手本を見出します。

 

そして、それらを再解釈し、ライト流アール・デコの表現とともに、アメリカの大草原に伸びやかに広がっていくような形態のプレーリースタイルをこのロビー邸で見事に完成させました。

 
フランクロイドライト_ロビー邸
 

この発想は田園郊外における大衆のニーズとうまく合致し、彼の建築家としての名声を大いに高めたのです。

 

ライトの主張した有機的建築は、敷地、建築、家具、装飾や自然環境すべてが一体となって建築の品格をつくり、質を向上させるというものでもありました。

 

さらに、工業技術と構造的合理性を積極的に取り入れながら、自然との融合と豊かな装飾による効果をめざした点も見逃せません。

 

近代の機能主義、抽象的·均質的な建築をつくる者たちとは一線を画するものだったのです。

 

◯ピカソからはじまるキュビズム

1907年、前衛的なアフリカ彫刻の力を感じさせる「アヴィニョンの娘たち」という絵画が話題を呼びます。

 
キュビズム2
 

画家の名は、パブロ・ビカソ。

 

官能的な5人の女性を描いたこの大作は、事物の形を一旦解体した上で、画の中で複数の視点から再構成されていました。

 

これがキュビスムのはじまりです。

 

人体の極端な歪曲、平面化された表現、さらに遠近法的な空問表現の否定が多視点的イメージの結合につながっていることが特徴です。

 

そして、それらが立方体へと変換され、キュビスム建築が生まれました。

 

◯ヤロシュ・ヴィラ

 

キュビズム建築のヤロシュ・ヴィラ。

 
ヤロシュ・ヴィラ
 

ファサードの開口部における装飾要素の解体、幾何学への還元と立体的再構築は、まさにキュビスム的手法と言えます。

 

造形的には鉱物性がある点はアール・デコと共通しています。

 

立体的キュビスムが徹底され、折れ曲がった面によって組み立てられた外壁かつ窓廻りは、光と影によってその視覚的効果を高め、動きのあるリズミカルな構成です。

 

目に見えるものを自分の感覚で表現する「絵画の手法」は、パブロ・ピカソのキュビスムにはじまり、印象派(モネなど)、新印象派(スーラなど)、後期印象派(ゴッホなど)、表現主義(ムンクなど)へとつながっていきました。

 

こうした絵画が生まれた背景として、1839年に写真が登場したことが大きな理由のひとつです。

 

モチーフをそっくりに描くだけでは、到底写真に敵わない。

 

そこで画家たちは思考を巡らせ、絵画にしかできない造形表現による新しい芸術を創出しました。

 

このように、絵画美術と建築は強く関連し合う芸術だったわけです。

 

キュビスム建築は二次元である絵画を三次元の建築に適用したところが、非常にユニークでしたが、ファサードにおける装飾の域にほぼとどまりました。

 

芸術運動としてのキュビスムは、1914年の第一次世界大戦のはじまりとともに解体され、戦後になって再び活気づくことはありませんでした。

 

しかし建築においては、この後の時代に登場する未来派などのような前衛運動の源泉ともいえる役割を担ったことは確かです。

 

◯未来派の幕開け

イタリアの詩人F.T.マリネッティは「古きイタリアを解体し、新しい世界として自国を再構築すべきだ」と主張し、「未来派創立宣言」を発表しました。

 

この頃、イタリア北部のミラノでは、電灯が昼夜の境を暖味にし、電話や無線電信が登場。

 

馬車だった移動手段は市電と車に取って代わり、労働者が街に溢れる先進工業都市になっていました。

 

この大工業都市の様相が、マリネッティに大きな刺激を与えました。

 

彼は旧態依然とした現状を批判、新しい世界としての自国の再構築を人々に訴えていきます。

 

「速度の美にそ新しい規範になるものだ」として、自動車など時代の先端技術である機械を賛美しました。

 

これが、未来派の思想です。

 

未来派の運動は、やがて建築にも影響を及ぼすことになります。

 

◯アントニオ・サンテリアのスケッチ

サンテリアは、未来派建築宣言においては伝統的な様式を否定し、マリネッティ同様、科学や近代技術を賛美しました。

 

この建築宣言の背後には、「表層的な装飾によって新興ブルジョワジーの要望に応えようとしたリバティ建築(イタリア版アール・ヌーヴォー)は近代生活にふさわしくない」という思いがあったのです。

 

サンテリアのドローイング「高層住宅」にはそのヴィジョンがよく表れています。

 

 

足元にはいくつもの路線や自動車道路、建物から独立したエレベーターといった交通テクノロジーが組み込まれ、建築のダイナミズム化に成功しています。

 

一方で、「駅」のドローイングを見ると、単なる鉄道駅ではなく、新しい輸送手段である飛行機の駅、つまり空港と一体化し、都市の交通の起点として想定されています。

 

空港と鉄道駅をつなぐケーブルカーの斜路や高層住宅のセットバックからは斜め方向のペクトルが現れ、不十分ではあるもののマリネッティが重視する速度の美を感じさせます。

 

アール・ヌーヴォーを「自然がモデル」だとすれば、未来派は「機械をモデル」であり、憧僚の的となるさまざまな技術革新を都市の創造に取り入れたというわけです。

 

高層建築という点だけ見れば、アメリカの摩天楼と同じと思うかもしれません。

 

しかし、アール・デコのような装飾はなく、あくまで鉄・コンクリート・ガラスといった工業材料のストレートな表現でした。

 

未来派の構想は実際には建設されなかったですが、以後の構成主義に強い影響を及ぼすようになります。

 

以上、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)からでした。

 

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