デザイナーたちの物語 フランク・ゲーリー
弊社、大禅ビルが行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。
そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、
そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。
とは言え、私は専門的にデザイナーとしての教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。
本物のデザイナーというのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものだと思っています。
◯建築は、直感から。
今回ご紹介するのはフランク・ゲーリー。
アメリカ合衆国のロサンゼルスを本拠地とする、カナダ出身の脱構築主義の建築家です。
先駆的な数あるゲーリーの作品の中でも、彼の自邸は金網やトタン波板などの安価な材料を使ってグシャグシャとした形態と空間をつくりあげ、一躍彼の名を知らしめた傑作として有名です。
現代建築史におけるゲーリーの重要性は、脱構築主義という枠組みをはるかに飛び越えます。
例えばスペインの地方工業都市に設計されたビルバオ・グッゲンハイム美術館は、河畔に打ちあげられた巨大魚のような躍動感のある類例のない魅力的なデザインによって、美術館自体が観光資源となり、都市全体の経済的文化的復興に大きく貢献しています。
この現象は「ビルバオ・エフェクト」と呼ばれ、文化施設による都市再生モデルとなり、世界各地でアイコニックな建築が建つ潮流を生みました。
建築の製作手段についてもゲーリーは革新をもたらしました。
ゲーリーの設計はまず、模型を直観的に作ることから始まります。
模型作成を繰り返し行い、 模型から構造解析を経ることで、独創性と合理性が両立した設計活動を実現しています。
こうした設計プロセスは、技術会社ゲーリー・テクノロジーズ社によってさらなる発展がなされてきました。
新たな技術を積極的に応用しながら、ゲーリーの独創的な建築は合理的に設計・施工されているわけです。
◯原点は幼い頃に作った「小さな家」
ゲーリーは、1929年2月28日、カナダのトロントに住むユダヤ人家庭で生まれました。
創造性豊かな子どもだった彼は、薪ストーブの薪の切れ端を使って架空の家や小さな未来都市を作ったりしていました。
彼が段ボールやチェーンフェンス、無塗装の合板などの工業素材を使うのは、祖父の金物屋で過ごした時に得たインスピレーションだったそうです。
1947年、家族でアメリカに移住し、カリフォルニアに住むことになります。
宅配トラックの運転手をしながら、ロサンゼルス・シティ・カレッジで学び、最終的には南カリフォルニア大学の建築学部を卒業。
ゲーリーによれば、「ロサンゼルスでトラックの運転手をしながらシティ・カレッジに通い、ラジオのアナウンスをやってみたが、あまり得意ではなかった。
化学工学をやってみたが、これも苦手で好きではなかった。どういうわけか、「自分は何が好きなんだろう」と頭を悩ませ始めたんです。
私はどこにいたっけ?何が私を興奮させたのか?
そして、美術館に行って絵を見るのが好きだったこと、音楽を聴くのが好きだったことを思い出しました。
それは、コンサートや美術館に連れて行ってくれた母の影響です。
おばあちゃんと積み木のことを思い出して、直感で建築の授業を受けてみたんです」と。
建築の世界に自身の原点を発見したゲーリーは、1954年に南カリフォルニア大学で建築学の学士号を取得して卒業しました。
1956年秋、家族でケンブリッジに移り住み、ハーバード大学デザイン大学院で都市計画を学びますが、修了前に退学しました。
ゲーリーはロサンゼルスに戻り、建築事務所に就職します。
28歳の時に初めて個人住宅を設計する機会を与えられたゲーリーは、友人であり昔の同級生でもあるグレッグ・ウォルシュと共にこれを設計しました。
この作品は、後の作品の代名詞となる特徴が見られます。
190平方メートルを超える山間の隠れ家は、アジアの影響を強く受けたユニークなデザインが特徴で、奈良の正倉院などがインスピレーションの元になったそうです。
1961年にパリに移り、建築家のアンドレ・レモンデのもとで働きます。
1962年、ゲーリーはロサンゼルスで事務所を設立し、1967年にフランク・ゲーリー・アンド・アソシエイツとなり、2001年にはゲーリーパートナーズとなりました。
ゲーリーの初期の仕事はすべて南カリフォルニアで行われ、サンタモニカ・プレイスなどの革新的な商業施設や、ベニスにある風変わりなノートン・ハウスなどの住宅を数多く手掛けました。
1989年、ゲーリーはプリツカー建築賞を受賞しました。
審査員はゲーリーを「常に実験に前向きで、ピカソのように批評家の評価や自分の成功に縛られることのない確かさと成熟さを持っている」と評価しました。
1997年、スペインのビルバオに「グッゲンハイム美術館ビルバオ」がオープンし、ゲーリーは世界的な評価を得ることになりました。
それ以来、ゲーリーは定期的に大きな仕事を受注し、世界で最も注目される建築家の一人としての地位をさらに確立していきます。
◯定義不能な建築スタイル
「カテゴライズを拒む」と言われるゲーリーの作品は、実験の精神を反映しており、いわゆる様式や建築運動とはほとんど無縁の独創性を秘めています。
初期の教育的影響をモダニズムに受けたゲーリーの作品は、モダニズムの様式的傾向から逃れようとしていますが、その根底にある変革への意志を絶やすことはありませんでした。
ゲーリーの作風は時に未完成で粗野にさえ見えますが、彼の作品は、粘土のような安価で、一般的にあまり使われない素材を使った本格的なアート創造を特徴とし、彼の作品には常に少なくとも脱構築主義の要素があると評されています。
ゲーリー自邸
ロサンゼルスの住宅地に建てられた自邸です。
一般的な戸建住宅を、トタン、金網、合板等々の広く流通する安価な工業製品を用いてグシャグシャとした独創的な形態に増改築しました。
いびつな形状の窓や壁によって異常な姿に見えるが、ゲーリーの巧みな手さばきにより、不思議な心地よさを備えた、開放的な室内環境が生み出されています。
ビルバオ・グッゲンハイム美術館
優れたデザインの建築が、衰退する都市の再生手段になることを示した美術館です。
魚のような、躍動的な三次元の外形はチタンパネルの皮膜をまとい、内部は単純な直方体の展示室から、現代アートと共鳴する自由な形の展示室まで、さまざまなバリエーションの展示室が計画的に配置されています。
フライング・フィッシュ
コンピューターを使用した設計の草分け的存在であるゲーリーが、コンピューターを使いこなした初期の作品に、 バルセロナ・オリンピックに際してつくられた巨大モニュメント。
これ以降ゲーリー作品では魚のモチーフが定番となったと言われています。
以上、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)からでした。