バブルの歴史⑦ ―平成バブル―
戦後日本に浅くない傷を残した
「平成バブル」
について、引き続き大禅ビル(福岡市 大名 賃貸オフィス)不動産研究室よりお送り致します。
前回はプラザ合意によって引き起された円高不況、それに対応するための日銀による金融緩和、
そして大量に供給された資金が不動産に流れた経緯を説明させて頂きました。
今回は株価に与えた影響について見ていこうと思います。
■踊る株価
日本は戦後、焼け野原から復興したわけですが、言い換えればスタート時はほぼゼロの状態なので、経済は上がるしかなかったわけです。
株価もそれに反映して、波はあったにせよ概ね上昇してきました。
それこそプラザ合意後の円高不況の時、不況から回復したのに金融緩和されたままでしたから、株価は上昇を続けていきました。
金融緩和は不動産株価に与えた影響はとても大きく、1985年に約1万3000円だった日経平均株価は、翌年の1986年にはなんと18000円になっています。
たった1年のうちに日本全体の株価が40%近く上昇した計算です。
まさに株価暴騰です。
株価暴騰の中で起きた特筆すべきイベントは、1986年のNTT株の放出です。
国営の電電公社が1985年に民営化されNTTとなった後、その株式は政府が保有していましたが、これの市場に売却したのです。
広く国民から購入希望者を募り、1000万人も集まった応募者の中から当選した165万人に証券会社を通じて1株ずつ売却しました。
NTT株は上場されるやいなや急激に値上がりし、最高で318万円というとんでもない高値にも達します。
高い期待が寄せられていた優良株式という理由もあったのですが、当時の大蔵省にとって株価を高くすることはとっても大事でした。
簡単な理屈です。
誰だって一円でも高く売りたいわけです。
加えて大蔵省は、景気回復のために重ねた国の借金を少しでも返済しようと必死でした。
上場時のNTT株価は120万円でしたが、上場後たった二日で25%の値上がり。
数週間で一気に320万円の大台に乗る。株価収益率は200倍!
これはNTTの1年間分の利益の200年分の価格がついたことを意味します。
NTTの時価総額は50兆円を超え、もはや国家予算レベルです。
NTT一社の時価総額だけで「ドイツの株式市場」と「香港株式市場」の合計を上回る水準にまで達してしまいます。
「株は儲かる!」―このNTT株が株ブームの起爆剤となって、今まで株式投資を行なったことがなかった多くの人々が株式に手を出すようになります。
一部のプロのものだった株式投資は一気に大衆化しました。
企業も積極的に株式投資を行なうようになります。
企業の財務部門が積極的に収益を稼ぐ財務のテクニックは「財テク」と呼ばれました。
当時流行っていたのは、増資などによって資金を調達し、それを用いて株式投資を行なうことでした。
増資によって調達された資金は返済も利払いも必要がなく、
さらに増資をした会社の株も当時ではずっと上がっていくと思われており、実際に上がっていったため、増資ができたのです。
このように国民皆財テクとも言うべき現象によって、株式市場にかつてないほどお金が流れ込むのでした。
ちなみに企業が調達した資金は株や不動産投資以外に設備投資にも使われ、「世界史上最大の設備投資ブーム」と呼ばれるようになります。
■継続される金融緩和
1987年に
「ブラックマンデー」
と呼ばれる株価暴落が世界中で起きます。
香港市場から株価の暴落が始まり、ヨーロッパ、そしてアメリカに波及し、世界同時株安を引き起こしました。
日経平均株価も過去最大の大暴落でしたが、下落率で言えば香港やシンガポール、ヨーロッパほどではなく、生活にまで影響は及びませんでした。
アメリカのダウ工業平均株価が31%下げたのに対し、日経平均だけは19%の下げで済んだのです。
そして日本は半年後の1988年4月には下落分を回復させるに至ります。
これはブラックマンデーの影響を受けた国の中で最も早い。
日銀が利上げせずに金融緩和を継続したのもあって、景気がバブルに入りつつあったため投資意欲も高かったのが、いち早く暴落の影響から抜け出せた理由でした。
同時に大蔵省による株価維持も行われました。
暴落翌日、大蔵省は当時4大証券会社だった野村証券、大和証券、山一証券、日興証券の4つの代表を呼び出して、日経平均株価を2万1000円以上に維持するように要請。
そこで証券会社は「特定金外信託」という、株や不動産の売却益への税金を低く抑える制度を活用した
「営業特金」
と呼ばれる手法で市場から莫大の投資金を集めます。
この営業特金では現在の証券取引法では違反とされている
「証券会社による利回り保証」
が公然と行われていました。
証券取引が企業から預かった資金を運用し、銀行預金の金利を超える水準で最低利回りを保証する。
「絶対に儲かる」
と謳ったわけです。
営業特金に企業は殺到し、1985年に特金に投資された総額は9兆円弱でしたが、4年後にはなんと40兆円にまで膨れ上がってしまう。
これは当時日本の国家予算60兆円の約3分の2に当たる金額です。
しかしこの違法行為を前に、株価を維持するために大蔵省は黙って見逃します。
■崩壊への序曲
唐の皇帝・太宗が、臣下たちとの問答を収録した古典『貞観政要』に収められている名言として
「創業は易く守成は難し」
という言葉があります。
新しく事業を興すよりも、その事業を受け継いで守り続けていく方が難しい、といった意味ですが、
守成、つまり「一回成功した状態」を維持していく方が失敗しやすいと言っているわけです。
なぜか。
それは人間が失敗するのは本質的には
「上手く行っている時の油断」
であって、実際目に見える形で失敗が顕在化するのは、単に上手く行っている時に積み重ねた失敗が危険水域を突破しただけの現象に過ぎません。
人間は失敗するのは逆境ではなく順境だと言えます。
バブルも同じです。
景気は絶好調でインフレにもならず、失業率も低い。
株と不動産はジャンジャン上がっていく。
バブルの時は誰もバブルだと気づかないものです。
普通ならば景気がよくなればインフレになり、インフレ抑制のため金融引き締めが行われ、
景気は後退し、地価も株価も下がっていくという流れをたどって、ある程度大きくなったバブルは潰されてしまうところでした。
しかし平成バブルは円高の影響で、景気が絶好調にもかかわらず、消費者物価は落ち着いていました。
そこで金融の引き締めも行われず、景気の絶好調は長期間にわたり維持され、その間にバブルは膨張を続けたのです。
1989年の終わり、日経平均株価はついに4万円の大台に近づき、80年代初めと比べると約5倍近く上昇していた計算になります。
当時の野村証券は日経平均株価が1995年には8万円に達するという予想まで飛び出していました。
そして株購入のための信用取引残高は約9兆円に達し、バブル開始前の1980年の約8倍にまで膨れ上がっていました。
1987年、ついに日本はGNPでアメリカを追い抜いて豊かさで世界トップの経済大国としてアメリカと並びます。
ジャパン・アズ・ナンバーワン!黄金期の到来です。
しかしバブルはバブル、所詮は泡です。
そして泡はいつか弾けるもの。
平成バブルは結局、政府と日銀によって潰されてしまいます。
■高くなり過ぎた不動産
原因は不動産でした。
不動産が高騰したせいで普通のサラリーマンが一生働いても買えない値段になってしまったのです。
それに対する不満が日に日に増えていきました。
そこで、以前からバブルに対し否定的な立場だった日銀マン・三重野康氏が日銀総裁に就任したのをきっかけに、
今までの金利を下げて「不動産や株を買いやすくする方針」が「地価を抑え込む方針」に一気に切り替えられたのです。
(つづく)