デザイナーたちの物語 バックミンスター・フラー
弊社、大禅ビルが行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。
そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、
そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。
とは言え、私は専門的にデザイナーとしての教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。
本物のデザイナーというのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものだと思っています。
◯発明と建築の異才
今回ご紹介するデザイナーはバックミンスター・フラー。
効率と性能を極めた異端の建築家、発明家、数学者です。
フラーは、建築デザインを中心に多くの発明を行い、広く知られているジオデシックドームを普及させました。
フラーレンとして知られる炭素分子は、後世に科学者によって、構造的にも数学的にもジオデシックドームに似ているという理由でフラーの名前にちなんで命名されています。
フラーは1895年7月12日、マサチューセッツ州で生まれました。
小さい頃から工作に興味を持つ子どもで、森の中で見つけた材料から道具を作ったり、小舟の推進装置を設計しては実験に熱中したりしていました。
こうした経験を経たことで、フラーはデザインに興味を持っただけでなく、後に彼が関わるプロジェクトで用いられる素材に関する知識を身につけることができたと言います。
名門ハーバード大学に入学しますが、素行不良で退学処分を受けます。
ハーバード大学での勉強の合間に、フラーは繊維工場の機械工として働き、後に食肉加工工場で働きました。
第一次世界大戦では艦内無線オペレーター、救助艇の指揮官として米海軍に従軍し、除隊後再び食肉業界で働き、管理職としての経験を積んでいきます。
結婚後、フラーは彼の義父と共に軽量建築建材のビジネスを始め、ここからフラーは建設業に携わるようになり、そこで産業工程や、より少ない資源で最大の成果をあげるという原則を学びます。
しかし数年後、彼は会社から解雇されます。フラーが32歳の時です。
職を失い、貯金もなく、数年前には幼い長女をポリオで亡くし、次女は生まれたばかり。
金策と将来に思い詰めたフラーは酒に溺れるようになり、自殺まで考えたと言われています。
絶望のどん底の中からフラーは「一個人が世界を変え、全人類のためにどんな貢献ができるかを見極めるために実験しよう」という悟りを得て、以降は研究中心の活動に身を投じていきます。
ここでフラーの代名詞となった幾つかのプロジェクトを紹介します。
◯元素名にもなった「ジオデシックドーム」
ジオデシックドームはフラーが1945年から1949年にかけて開発した、最大限の強度を持つ空間を最小限の構造で生み出すことができる構造システムです。
これは、単純なテンセグリティ構造(引っ張る力と圧縮する力で均衡を保つ構造)の基本原理の拡張に基づいています。
四面体のフレームが連続する構造になっており、球体内部は無柱空間。
軽量かつ安定した構造になっています。
フラーのシステム研究が実を結んだこの作品は大成功を収め、世界中に数多くのドー
ムが建設されるようになります。
◯人類のための夢の量産住宅「ダイマクション・ハウス」
フラーは生活設備が完備された住宅をまるごと大量生産しようという考えのもと、「ダイマクション」と名の付いた大量生産住宅モデルを開発しました。
ちなみにダイマクション(Dymaxion)とは、「ダイナミズム(Dynamism)」「マキシマム(Maximum)」「イオン(Ions)」を合わせた造語です。
フラーにとって住宅の設計とは、一人のクライアントのためでなく全世界の人のために、より快適で安価な住まい(装置)をどう迅速に供給するかという問題でした。
運搬・組立ての簡略化には、建物に徹底的な軽さが求められます。
最小限の部材で最大限の空間を覆うには、柱を立てて屋根を支える一般的な構造よりも、屋根を吊り下げるほうが部材重量はずっと少なくて済むことから、ダイマキシオン・ハウスは構想されました。
ウィチタ・ハウスは1928年に構想されたダイマキシオン・ハウスの発展型です。
形態や機能がモンゴル遊牧民のパオに似ています。
壁は軽くて薄い航空機用のジェラルミンで覆われ、少ない部材がつくる流線形の曲面が、外部では建物を風圧から守り、内部では空気を壁に沿って循環させることで、快適な住環境を確保しています。
ダイマクションの設計の根底には住宅を「生活のための機械」と捉えるフラーの思想がありました。
これは、近代建築の巨匠・コルビュジェが住宅を「住むための機械」と形容したこと相通じているように思えますが、フラーの作品はモダニズム建築とは似ても似つかないのは、
彼は美学よりも、効率や機能を突き詰めていく意識を持っていたと思われます。
◯未来のスーパーカー「ダイマクション・カー」
ダイマクション・カーはフラーが設計した車で、1933年から1934年にかけてシカゴで開催された万国博覧会で話題をさらいました。
大恐慌の最中、フラーはダイマクション社を設立し、3つの試作車を製作しました。
フラーが目指していたのは、どこへでも移動できるオムニ・ミディアム・トランスポート(全方位型移動媒体)と呼ばれる乗り物であったため、
ダイマクション・カーは最終的に地上移動用の車輪と、離陸と飛行のためのジェット装置を搭載することになったと言います。
フラーは前輪駆動に注目し、手押し車が荷を前に押すのではなく、より効果的に荷を引っ張る方法を研究し、
また空気力学的に長い平面胴体を安全に着陸させるには、向かい風の空気抵抗を軽減することが大きな課題になるだろうと考えていました。
さらにフラーは彫刻家のイサム・ノグチ氏と協力して,ダイマクション・カーの石膏風洞模型を作成し、車体を涙の形状とすることに決めました。
しかし、ダイマクション・カーは厳しい批評に晒され、結局量産されることもありませんでした。
フラーの死後、21世紀になってから、ダイマクション・カーの車体を流体力学の観点から解析した結果、
このザトウクジラにも似た車体は、実は空気抵抗を低減するのに最適なフォームであると判明したのです。
◯環境システムを思索する建築家
建築家であると共に環境活動家でもあったフラーは、地球の資源は有限だと認識していました。
無駄な資源や廃棄物をより価値ある製品にリサイクルすることが可能であり、結果としてプロセス全体の効率が向上するという考え方を持っており、
既存の社会経済システムの下での持続可能性と人類の生存に懸念を抱いていました。
富についてもフラーは独特の概念を持っていました。それは、一般的に私たちの大部分に認められている貨幣ではなく、
生命の成長に必要なすべてのものを保護し、育成し、支援し、適応させる技術的能力と、それ自体を更に発展させ続けることこそが「富」の本質であるとしました。
晩年世界中で講演し、数多くの名誉博士号を授与されたフラーでしたが、彼のアイデアのほとんどは実用化には至らず、然るべき評価を受けたとは言い難い。
時代の最先端を行き過ぎた天才の宿命なのでしょうか・・・。
以上、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)からでした。