デザイナーたちの物語 チャールズ・ルイス・ティファニー
弊社、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)が行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。
そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、
そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。
とは言え、私は専門的にデザイナーとしての教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。
本物のデザイナーというのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものだと思っています。
■アメリカNo1宝石商・ティファニー
今回ご紹介するのはチャールズ・ルイス・ティファニー(1812年- 1902年)です。
ご存知、あの高級ジュエリーブランド、Tiffanyの創業者であり、19世紀のアメリカのジュエリー業界をリードした人物です。
チャールズは1812年2月15日、アメリカのコネチカット州キリングリーで生まれました。
ティファニー家は後にアメリカ随一の大富豪となっていくのですが、この時はまだニューヨークの町外れの借家で暮らしていました。
チャールズは15歳の時に、綿花製造会社の経営者であった父親が始めた小さな雑貨店の経営を手伝い、その後父の製粉所の事務所で働きます。
25歳の時に、ティファニーは父親から1000ドルを借りて、同郷の友人ジョン・B・ヤングと一緒にニューヨークで小さな文房具とギフトの店を立ち上げました。
これが現在のティファニー社の前身になります。
1号店はニューヨークのブロードウェイ259番地に置かれました。
この店は当時一般的な時価でなく「各商品に値札をつけ値引き交渉に応じない」という当時としては革命的なポリシーを貫いていました。
オープン当初の3日間の売上はわずか4.38ドルだったそうですが、2年後にはガラス製品、磁器、カトラリー、時計、宝飾品などを販売し、高級雑貨店として事業を展開していきます。
1840年に本店をニューヨークの5番街・57丁目に移転します。
ちなみにここは後にオードリー・ヘプバーンが主演した映画『ティファニーで朝食を』のおかげで観光名所となった場所です。
この時既にティファニーのカンパニーカラーである「ティファニー・ブルー」が使われていました。
上品な質感を持ちながら、軽やかさを感じさせるこの特徴的な青緑色はコマドリの卵の色に由来しています。
てっきり何かの鉱物の色だと思っていましたが、まさか鳥の卵だったとは。
むしろこんな宝石を見紛うような綺麗な色の卵が存在していたことに驚きました・・・。
■秘宝を狙え!
転機はヨーロッパの革命でした
1848年フランスでの二月革命が勃発し、オルレアン朝が崩壊。
ヨーロッパ各地で蜂起があり、各国の王族、貴族たちは国外亡命のために、自らの貴重な宝飾品を二束三文で手放して現金を得ようとします。
これに目をつけたのがチャールズでした。
彼はすぐに盟友のヤングに声をかけ、雑貨を仕入れるための資金を全て宝飾品に回し、ヨーロッパ中から宝石を買い漁ります。
ルイ15世の宝石、マリー・アントワネットの遺品といった貴重品が、この時ティファニーの所蔵になったのです。
こうしてチャールズたちは本格的に宝石事業に進出します。
結果大成功し、アメリカの富豪たちはヨーロッパの高価で宝飾品を身に着けることができるようになったと言われています。
これがアメリカ第一の宝石商としての地位に繋がっていくのでした。
ティファニーはさらにニューヨークの銀細工師、ジョン・C・ムーアの事業を買収、銀製品製造を開始して取り扱い品目を多角化させます。
■ジュエリー業界をリードする存在へ
ティファニーは、一点もののジュエリーを求める飽くなき探求心で知られるようになり、ニューヨークの上流階級の人々から絶大な人気を博しました。
1850年代初頭には、ティファニー・アンド・カンパニーという名前で再編成され、パリとロンドンに支店を開設。
1851年、アメリカ企業としては初めてスターリングシルバー基準を適用しました。
これは銀の含有率92.5%、割り金(製品強度を上げるための金属。主に銅とアルミニウム少々)7.5%の銀合金を指し、銀に品質に関するイギリス発の法定品位です。
つまりティファニーは、銀製品の業界基準をアメリカに導入したわけです。
1853年、チャールズは会社の全権を握り、社名を今のTiffany&Co.に改称しました。
1858年、チャールズは大西洋ケーブルの余った部分を手に入れ、それを切り刻んで記念品として販売し、
南北戦争が近づいてくると、チャールズは高級宝飾品の市場が衰退していくことに気づき、戦争用の剣やメダル、軽装品などの製造に目を向けるようになりました。
まさに機を見るに敏の実業家と言えそうですね。
1870年代末までには、チャールズとティファニーの名は確固たるものとなり、アメリカのジュエリー業界に影響を与えるポジションを獲得しています。
そんな中、チャールズは現在「ティファニー・ダイヤモンド」と呼ばれているものを18,000ドルで購入しました。
この宝石は、未カットの状態で287カラットだった南アフリカ産のイエローダイヤモンドを、1年近くかけて128.54カラットにまで丁寧にカットしたものです。
世界で最も貴重なイエローダイヤモンドのひとつとして現在もニューヨーク本店で展示されており、毎年何千人もの訪問客を魅了しています。
ちなみにこのダイヤモンドは前述の『ティファニーで朝食を』の宣伝用スチールのオードリー・ヘップバーンによって身に着けられていました。
チャールズ・ティファニーは他にも革新的な功績を残しています。
最初の小売カタログの発行や、6本のプロングが特徴的なエンゲージメント・リングの「ティファニー・セッティング」を考案したのも彼の功績です。
ダイヤモンドを購入してから10年後、ティファニーはフランスの王室御用達の宝石の一部を手に入れ、ジュエリー業界でのティファニーの評価はさらに高まりました。
■成功者の遺訓
1886年、チャールズの74歳の誕生日に、ニューヨークのマディソン街にティファニー家の豪邸が完成しました。
著名な画家であり、卓越したガラス細工師でもあった息子・ルイスが設計した、ティファニー一家のための邸宅です。
5階建て重厚なレンガ造りの、部屋数が50以上!掃除だけでも大変そうですね。
当時最高峰のガラス技術が余す所なく駆使され、意匠を凝らされたステンドグラスからはきらびやかな陽射しが差し込んでいたそうです。
居間に設えられた鉄の暖炉の煙突は一階の床から全ての階をぶち抜きで建ち、部屋には吊りランプや東洋の骨董品など、センスのよい調度品が並びます。
しかし、ティファニー家の栄達を具現化したかのような贅を尽くしたこの家に、チャールズは住もうとしません。
その代りに建築物の梁に、警句を彫らせたと言います。
「善人はめったにいない。自分自身にも気をつけなさい」
「隠遁生活は霊感に満ちている」
父親同様、成功を収めた息子に対する教訓、そして自身に対する自戒の念が込められているように私は感じました。
チャールズ1902年2月18日、ニューヨークのマンハッタンの自宅で亡くなりました。90歳でした。
今も世界中の人々を虜にしている輝きの裏には、貧しさから身一つで大事業を興した事業家の努力と謙虚さがあったのです。
以上、大禅ビルからでした。