―ゼネコン創業者の面影・大林芳五郎②―
前回に引き続き大林組の創業者・大林芳五郎についてです。
■初めて体験する大仕事
歴史の教科書で必ず目にする「憲法発布式之図」。
1889年2月11日に執り行われた大日本帝国憲法の発布式で、明治天皇が内閣総理大臣の黒田清隆に憲法を与えている歴史的瞬間を留めた錦絵です。
この日は「建国記念の日」として今日まで引き継がれているのは、皆さんご存知の通りです。
そしてこの式典では、もう一つ大きな目的がありました。
「新築宮城(皇居)の披露」です。
天皇の住居、昔は「京(みやこ)」と呼ばれていましたが、710年に奈良の平城京、そして794年に平安京に遷都して以降、1000年以上移ることがありませんでした。
明治維新を契機に1000年ぶりの遷都、一大事も一大事です。
当初明治天皇の御座所は旧江戸城西の丸御殿の予定でしたが、火災で消失したため新宮殿を造営する運びとなっていました。
そして1889年に完成したのが「明治宮殿」です。
京都御所を模した和風の外観に、椅子やシャンデリアのある洋風の内装という和洋折衷の様式の木造建築でした。
天皇が日常の政務を行う御座所、儀式の場である正殿、天皇の住居である奥宮殿などによって構成され、まさに皇居の中心を成す建物でした。
「憲法発布式之図」で描かれた憲法発布は、まさに新築されたここ、明治宮殿の正殿で行われました。
この国家事業に、後の大林組の創業者となる大林芳五郎(当時は由五郎)が参画していたのです。
名古屋師団の兵舎工事から帰京した芳五郎は、本格的に開始した皇居造営の加わります。
ここでは主に材料調達や見積作成の実務を任されていました。
叩き上げで土木、建築の知識を身に付けていた由五郎は仕事を丁寧に捌いていきました。
時に由五郎は24歳、この年で皇居建造という大工事に関わった経験が青年に与えた影響はどれほど大きかったか。
ちなみに更に天皇家と由五郎のご縁は後にも続いていきます。
後年、明治天皇と昭憲皇太后が崩御された際も、それぞれの墓となる伏見桃山御陵、伏見桃山東陵の造営工事の特命は由五郎の率いる大林組に下されたのです。
■帰郷と旗揚げ
由五郎は1888年に故郷大阪に帰ります。
ここで彼は創業者としての第一歩を踏み出します。
江戸時代は「天下の台所」と呼ばれた大阪は、明治以降商業都市から工業都市へと劇的にシフトしていき、鉄工、鉄道、紡績、皮革、鉄工業などの会社が次々に設立されます。
鉄道、軍港築造、公共建築、産業施設など建設需要は大いに起こっていたました。
しかしながら、建設工事の請負業者の多くは昔ながらの棟梁、親方出身者たちで、大規模工事の要求に応えられる業者は殆どいなっかったのです。
由五郎は、このような需給不一致にビジネスチャンスを見出します。
1892年1月18日、由五郎は近江の豪商・阿部家の製紙工場新設工事を落札します。
それまで細々と小規模な請負をやっていた由五郎は、このチャンスを独り立ちのきっかけとすべく、全身全霊をかけて取り組みます。
落札から7日後の1月25日、この日を旗揚げの日と定め、創業資金の不足分は亡き父の友人と母の貯金から都合して貰いました。
最初の受注でもあるこの工事は成功します。
後年、同工場が火災で焼失した際の復旧工事、更に別工場の新規建設も由五郎が指名されたのです。
まだ駆け出しの小さな業者ではあったものの、由五郎は着実に信用という実績を積み重ねていきました。
当時の日本の建設業界の大きな流れは、木造和風から、洋風建築、鉄道、橋梁など西洋建築、工法へのシフトでした。
このニーズに応えられる業者は生き残り、そうでない業者は淘汰されていく時代だったと言えます。
業界の潮流を由五郎は上手く掴み得たのは、本人の商売人としての才覚もあったでしょうが、現場という自分の居場所で勝負する実務家の姿が想像されます。
彼は学校などで専門的、体系的に建築の勉強をしたことはありません。
それどころか恐らく学校で高等教育を受けたことすらないでしょう。
つまり土木、建築の素人で、いわゆるエリートとは程遠かった場所にいたのです。
土木建築は、ご存知の通り高度な知識と管理経験を要求される専門職。
これを一から学び、一企業を経営できるようになるまで、果たしてどれほどの努力が払われたのか。
■人に愛される男
由五郎は自身の能力、努力も然ることながら、彼には人を惹き付ける独特の魅力、人を活かす懐の深さも備わっていました。
大林組旗揚げの端緒となった製紙工場建設では、彼の奉公時代の同僚友人らが手助けし、更に施主である製紙工場の幹部が、由五郎の人となりを見込んで自身の甥を彼に託し入社させます。
彼がスカウトした白杉亀造という紺屋の青年も、由五郎が亡くなるまで右腕として働き、更に大林家二代の社長に亘り仕えました。
更に、当時極めて少数の大卒の工学士であり、海軍で技術の要職にあった船越欽哉、東京帝国大学出身の工学博士であり、内務省の官僚であった岡胤信(おか たねのぶ)といった大物技術者が相次いで大林組に招かれました。
建設工事の請負業は未だ賤業と蔑まれていた時代だっただけに、業界に衝撃が走ります。
この道の権威とも言えるエリートが、社会的立場を捨ててまで由五郎を選んだのです。
高給以上に、純粋に由五郎という男と一緒に仕事をしてみたくなったからではないでしょうか。
難工事や突貫工事の時、由五郎は風雨に関係なく日夜現場に立ち陣頭指揮を取り、品質と工期の厳守に精魂を傾けました。
先陣で共に立つ若旦那の背中を部下たちは頼もしく思えたことでしょう。
■恩返し
どんな偉人にも師となる人物はいます。
由五郎の場合、関西財界の重鎮である岩下清周はその一人でした。
岩下は以前本コラムで取り上げた阪急グループの創始者・小林一三が鉄道事業に開眼するきっかけを与えた師でもあります。
弟子にあの小林一三と大林芳五郎とは・・・・・・
却って岩下清周という人物への興味は尽きませんが、また別の機会に譲るとします。
三人は箕面(みのお)有馬電気軌道、後の阪急電鉄で関わりを持ちます。
すなわち岩下は同社の社長となり、実質経営を取り仕切っていた専務の小林、そして線路工事や温泉など関連施設の工事を行ったのが由五郎でした。
この時の温泉施設は「宝塚新温泉」と名付けられ、鉄道の終点である宝塚への旅客誘致を目指して開発された目玉スポットでしたが、施設の一部が後に宝塚少女歌劇団(現在の宝塚歌劇団)のステージとして使われたのは以前のコラムで書かせて頂いた通りです。
箕面有馬電気軌道の設立の2年後の1909年、合資会社大林組が設立されます。
建設会社に「組」と名乗る企業が多いのは、近代建設業の始まりとも言える棟梁を中心とする大工組織を「組」と呼んでいたからです。
職人の小さな寄り合いであった組を法人化し、近代経営への脱皮を図った日本で最初の建設業者が大林組でした。
大林組設立の経営判断も岩下のアドバイスが背景にありました。
由五郎の事業に多大な影響を与えた岩下が、後年大阪電気軌道(現在の近畿日本鉄道)の経営失敗に関連した折、由五郎の大林組は同鉄道の工事
費用が回収できず破産寸前に追い込まれました。
それにも関わらず、今の自分があるのは岩下のお陰だとして、由五郎は私財を投げ売ってまで師を苦境から助けようとしました。
岩下が本件の背任罪などで起訴されれば、自社の危急を顧みず八方手を尽くして打開策のために奔走。
その途上肺壊疽で倒れ、帰らぬ人となります。享年52歳、若すぎる死でした。
今日の林立する建物風景を創った男は、恩のため命をかける義に篤い棟梁だったのです。