―ゼネコン創業者の面影・大林芳五郎①―
■東京スカイツリー初体験
ある時東京出張で押上に泊まったことがあります。
といっても、東京はたまにしか行かないので、押上とは一体どの位置を指すのか検討もつきません。
しかし、ともかく一泊した朝、ホテルから出た私の目に飛び込できたのは、遠くに望む東京スカイツリーでした。
実物はなにげに初めて。
青空をバックに突き上げんばかりの白い尖塔、丁度時間もあったので足元まで近き、腰が痛くなるまで仰ぎ見てやりました。
ただひたすらに高い、高さを目指した白い巨塔でした。
そしてただの電波塔か展望塔が一本建っているとばかり思っていたら全くそうではなく、感じのよいレストラン、カフェ、ショップがぎゅっと凝縮された一大商業施設だったのです。
初めて知りました・・・・・・。
植物に例えると植木鉢の部分がそれで、スカイツリーはその上に伸びている植木、といったところでしょうか。
地方民の私にはお祭りのように思えるくらい、家族連れと内外の観光客でごった返していました。
お上りさんよろしく全フロアを回って見学、都会的なお洒落でお腹いっぱいになって帰ったのを覚えています。
ゲップを吐くほどに。
そしてもう一つ印象的だったのは、時代と高さの最先端を司るといっても過言ではない東京スカイツリーの足元四方に広がるのは、昔ながらの昭和チックな町並みだったこと。
時代の古めかしさを漂わせる民家の町並みのど真ん中に、宇宙人のモニュメントがドーン!
っと屹立する、この対比の異色感。たまりません。
なぜこんな場所に建てたのでしょうか。それともこの場所だから建てたのでしょうか。
先進文明を仰ぎ見るような気持ちです。
その昔、飛鳥時代の日本人たちが更地から生えるように立ち上がった五重塔を仰ぎ見た時も、あるいはこのような気持ちだったのかもしれません。
なんじゃこりゃ・・・・・・ナンマイダナンマイダ、とね。
さぞびっくりされたことでしょう。
バベルの塔ではありませんが、高さの快感への切望は人間の原始的な欲求かもしれません。
■東京スカイツリーのルーツ
東京スカイツリーの施工は日本5大スーパーゼネコンのうちの一角を占める大林組が担いました。
なんの偶然か、スカイツリーの誕生から丁度100年前、日本を代表するある高塔建築がオープンしています。
それが大阪の「通天閣(初代)」であり、建築も同じ大林組が携わりました。
そしてあまり知られていませんが、初代通天閣よりも前に、大林組は通天閣の近くの場所に日本の近代高塔建築の先駆けとも言える高塔を建設しています。
初代通天閣オープンのおよそ10年前の1903年、明治36年のことです。
日露戦争を翌年に控えたこの年に、大阪では博覧会が開催されました。
第5回内国勧業博覧会です。
今で言うところのEXPO、展示会で、殖産興業を国策として進める政府主催の、明治最大の国家イベントでした。
この時初めて大阪が開催地に選ばれ、10万4,000坪もの会場設営工事を落札したのは地元業者の大林組、請負金額の規模は現在の価格でおよそ30億円でした。
今回の博覧会は前4回に比べはるかに大規模なものでした。
美術館、工業館をはじめ多くの館に分かれ、英米独仏など13カ国に及ぶ外国の出品物も陳列されていました。
自動車(蒸気)、冷蔵庫、タイプライターなどを初めて日本人が目にしたのはこのときでした。
更に日本で初めてイルミネーションを導入、電気技術の高さをアピールし来客を興奮させた「光の祭典」を演出しました。
そしてこの会場に目玉となる高塔が建てられたのです。
「大林高塔」と呼ばれたそれは、高さ150尺(45m)で、木造としては前例がなく、エレベータを備えていたのも大阪初でした。高層建造物のなかった当時、世の話題をかっさらったようです。
これが先駆けとなり、後に博覧会の跡地に建てられる初代通天閣、更に今の東京スカイツリーへと繋がっていきます。
それぞれ大阪、東京の発展のシンボルとして、または庶民の盛り場として今も多くの人に親しまれ繁盛を見せています。
大林高塔は大林組の創業者である大林芳五郎が、大阪平野の素晴らしい景観を世に広めたいとの願いから、自主参加のもと建てられたと伝えられています。
芳五郎は塔に建設に意を用い、材料選定、荷重強度の計算、施工においてこだわり抜き、
日本高塔建築のエポックメイキングな事業となりました。
さて、今日。街を歩けば工事現場で時々目にする大林組の旗。
通天閣、東京スカイツリーのほかに、六本木ヒルズ森タワー、東京中央停車場(現東京駅)、伏見桃山御陵(明治天皇のお墓)、
皇居の新宮殿(国賓等の接伴、儀式・行事用)、大阪城など、
数多くのランドマークの新造・修復に関わってきた、文字通り日本の面貌を創ってきたスーパーゼネコンです。
この企業を一から創りあげた大林芳五郎とは一体、どんな人物であったか。
■大林芳五郎の生い立ち
大林は1864年に大阪で生まれました。
代々淀川で貨客船の商売を許された過書船の林家の家系で、父親である徳七の代に分家し、実家の屋号「大和屋」の「大」を「林」に冠して「大林」の姓としました。
徳七は塩、肥料用干鰯の問屋を営み成功していましたが、1873年で没し、あとには夫人と由五郎(芳五郎の幼名)を含む二男三女が残されました。
このとき由五郎は9歳でした。翌年、由五郎は他店の呉服屋に丁稚見習となりました。
由五郎は、幼少より眼光鋭く、眉太く、丸顔でふくよか、際立った腕白ぶりであったといいます。
兄が僧籍に入ったため、由五郎は家督を継ぎます。
奉公を続け、父譲りの周到綿密さと母譲りの機敏さによって主人に認められ、16歳で三番番頭に抜擢されます。
主人夫妻に男子がなく、娘婿にと望まれたほどでしたが、由五郎はこの申し出を断り、独立して呉服商を始めます。18歳の時でした。
しかし、折悪しく西南戦争直後の極端な緊縮政策下に、大阪の町は火が消えたようで、半年も経たないうちに資金繰りで行き詰まり、事業は失敗に終わります。
人生で最初の挫折でした。
この機に、彼は身の振り方について思案します。
「小売商売は自分の性格に適さない。かねてから有望視していた請負業こそ自分の性格からしても魂を打ち込んでやれる仕事だ」
もっと大きな仕事がしてみたい。挑戦へと駆り立てる青年らしい熱っぽさを燃やしていたかもしれません。
しかし当時、土木建築請負業は「賤業」と見なされ、堅気の家庭から敬遠されるような社会的立場の低い仕事でした。
そのため由五郎はひとまず地元大阪を避け、いまや文化の中心地として栄える東京で修行しようと初めて上京します。
この頃世は不景気でしたが、文明開化の波は留まらず、馬車鉄道が走り、鹿鳴館が、街に電燈が灯され、近代日本への脱皮が進む気鋭の時代でした。
19歳となった由五郎は東京遷都にともなう皇居造営を請負っていた砂崎庄次郎氏の膝下に入ります。
砂崎家は古くから皇居造営を担っていた家系で、庄次郎はそれに相応しい人格者であったと伝えられています。
建築の素人の由五郎はもちろん何らの技術をもたないので、勤怠管理、帳簿付けなど庶務、会計など裏方業務から担当させられます。
これが後に経営者としての管理に役立ちます。
最初は、皇居工事現場の勤怠管理係を務め、それから品川~赤羽間の鉄道工事に従い、土木工事の基礎知識を習得します。
工事中の仕事ぶりを見た砂崎の知人から名古屋師団の兵舎工事の応援を依頼されます。
由五郎は、建築については知識や経験がないので辞退したものの、先方たっての希望と師の砂崎の勧めで承諾しました。
そこで材料係となり、材料の品質、特性、用途、価格などの必要知識を身につけ、現場に出てはその使われ方を監督しました。
こうして由五郎は現場叩き上げで煉瓦、石、大工、左官など当時行われていた建築工事全般を把握。
そしてこのとき初めて施主始め関係者と折衝する立場に置かれ、後の創業基盤となる大きな経験を得たのです。(つづく)