スターバックス物語②
■スターバックスのDNAの創り方
大禅ビル(福岡市 赤坂 賃貸オフィス)の打ち合わせでも、お客様との待ち合わせでも、カフェをよく使います。
店の雰囲気にもコーヒーの味にもさしてこだわりはないものの、スターバックスだけはなぜか、他のカフェにはない「特別感」を感じさせてくれるますよね。
それはたぶんスターバックスには、スターバックスから生まれたDNAみたいなものが強烈に意識され、
店、商品、サービス、理念
の隅々にまで浸透されているからではないかと思います。
お店をそっくりそのままコピーして増やしていったような、お洒落さのバーゲンセールが如きチェーン店とは一線を画す
「スターバックス」のルーツが強調されているように感じます。
スターバックスも確かにチェーン店であることに変わりはありませんが、チェーン店といえど、それぞれの店が個性を強く発していて、
それでいながら「ザ・スターバックス」という「らしさ」を余すところなく共有しているんですね。
今回はスターバックスがどのようにして自らのDNAを練り上げていったのかについて、引き続きご紹介していきます。
■スターバックス・創業三人衆たちの師匠
登場人物は前回ご紹介しましたスターバックスの創業三人衆
ジェラルド・ボールドウィン
ゴードン・バウカー
ゼブ・シーゲル
そして、彼らがそのコーヒーに惚れ込み、師匠と仰いだオランダ人のコーヒーマイスター
アルフレッド・ピート
です。
ピートはアメリカに初めてヨーロッパ風の深煎りコーヒーを持ち込み、
「ピーツコーヒー&ティー」
という小さなコーヒー豆販売店を開き、上質なコーヒー文化の啓蒙を一人で始めます。
そこへ一杯の旨いコーヒーのためならばお金も時間も惜しまない若きコーヒー愛好者であるジェラルドはじめ三人がやってきて、
初めて口にする高品質なヨーロッパ風の深煎りコーヒーに魅了されます。
これをアメリカに広めたい!広めなくては!
ビジネス抜きの純粋な情熱に駆られるまま、彼らは共同でスターバックスを創業します。
彼らにコーヒーのなんたるかを手ほどきしたのがピートでした。
三人は入れ代わり立ち代わりピートの店に丁稚奉公しながら、コーヒーに関する知識から、接客、焙煎、淹れ方までみっちり仕込まれます。
■1号店オープン!
スターバックス1号店は1971年、殆ど宣伝広告もスタートを切ります。
といっても、私たちが知る今のようなカフェスタイルのスターバックスではなく、当初はコーヒー豆の卸売店でした。
店内で試飲はできるものの、あくまでメインは豆売り。
試飲の間に三人は深煎りコーヒーの魅力、アラビカ種がいかに素晴らしいかなどを顧客に伝え、コーヒーを伝道していくのでした。
当時アメリカでよく売られていたブレンドものの安価なロブスタ種は深煎りに向かず焦げやすい豆で、
一方、最高級のアラビカ種は熱にも耐え、深煎りによってコーヒーの風味を強く引き出せたのです。
開店初日の売り上げは予想をはるかに上回りました。
さあ、ここからグローバル企業に向けた快進撃の始まりだ!
・・・と言いたいところですが、スターバックスはその初期において、そもそも事業拡大を前提として始められたものではなかったのです。
ジェラルドら創業三人衆はスターバックスの規模を拡大して事業的成功を収めることなど殆ど考えなかったようです。
彼らの初志は純粋です。自分たちが感動した高品質なコーヒーを広めること。それだけでした。
顧客が買いたいものではなく、その予想を遥か後に置き去りにする高品質な本物を興奮と共に提供する。
全員にわからなくたっていい。少ない顧客に本物のコーヒーを届けさえすれば彼らは満足だったのです。若き情熱の迸りでした。
ビジネスパーソンであるよりも、彼らはアーティストであることに喜びを感じたのでしょう。
グローバル企業の代表格となったいまのスターバックスから想像もつかない、初期スターバックスはどこまでもビジョナリーでした。
下手にビジネスを追わなかったからこそ、スターバックスは自らのDNAを獲得できたのだと思います。
それは建物の礎石のようにスターバックスの背骨を成し、以後、波瀾万丈を含みつつも全世界に爆発的に進軍していくグローバル企業として脱皮していく中で、
常に立ち返る原点となり、足腰強く発展していくためのエンジンの役割を果たしていきます。
スターバックスを他のカフェと異ならしめた最初の要素は、本物の一杯のコーヒーをただただ広めたいというジェラルドらの情熱の純粋さだったと言えます。
■スターバックス中興の祖・ハワード・シュルツの登場
しかしこのままでは、スターバックスは結局、シアトル周辺で人気な一コーヒー豆ショップで終わっていたことでしょう。
スターバックスの理念と遺産を引き継ぎ、現在のグローバル企業の地位にまで一気に押し上げた中興の祖と言われる人物がいます。
ハワード・シュルツです。
ビジネス本やメディアにも頻繁に登場する名経営者の一人ですので、名前を聞き知っている方も多いのかもしれません。
ハワードは貧困なブルーワーカーの家で生まれました。
父は怪我で定職につけず、しまいに外に出る気力も失い、一家の食い扶持は母一人が支えていました。
住んでいたところも低所得者層向けの団地だったため、差別の目に晒されたこともざらにありました。
そんな恵まれない環境でした、ハワードは腐らずに、それどころか努力に情熱を傾けられる若者に育ちます。
大学卒業後、しばらく進路に迷った後、彼はオフィス機器の世界的メーカー・ゼロックス社に入社しキャリアをスタートさせます。
日本でも昭和に「コピー取って」を「ゼロックスして」と言っていたほど、コピー機のトップメーカーとして君臨していた超のつく一流企業で、
ゼロックスで仕事していると言えば尊敬の念を抱かれるほどでした。
今で言うとアップルとかグーグルに勤めてる!すげえ!な感触に近いでしょう。
ゼロックスで働き始めたハワードは、わずか数年でワープロ製品のトップセールスマンとなり、販売とマーケティングの実力と自信をつけていくようになります。
ただ、仕事は好きだったハワードでしたが、ワープロ自体にあまり思い入れはなかったようです。
もっと自分の好きなものをやり甲斐を持って取り組みたいと望んでいました。
事実彼は、超一流企業でのキャリアの道をさっくり捨てて、アメリカに進出したばかりのスウェーデンの雑貨販売会社・ハーマプラスト社に転職します。
彼がスターバックスと関わるのはもう少しあとですが、この時にすでに彼は世間体や給料よりも、己の冒険心をいかに満たすかどうかを人生の決断の軸としていたのが伺えますね。
また、現状から飛び出すのを躊躇わない思い切りの良さにも、リーダーシップの片鱗を覗かせます。
ハワードはこの会社でも実績を叩き出し、しまいに副社長とアメリカ市場の営業部長を任され、年間7万5000ドルの高給と専用車、そして無制限な出張旅費があてがわれるようになります。
プライベートでもマンハッタンで家を手に入れ、美しく才能豊かな妻を迎えます。
ハワードがまだ30歳になる前の話です。
まさかこんなに早く出世とは、本人も親も思わなかったでしょう。
傍から見て、誰もが羨む幸せを手に入れた若き成功者でした。
しかし、ハワードの心は満たされません。彼は既に次なる冒険を渇望していました。
未知に挑む戦いの中で得られるひりつくような人生の快感への飢えが、またもや彼を駆り立てます。
そんな彼が出会ったのが、スターバックスでした。
(つづく)