デザイナーたちの物語 ジョン・ソーン
弊社、大禅ビルが行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。
そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、
そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。
とは言え、私は専門的にデザイナーとしての教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。
本物のデザイナーというのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものだと思っています。
◯温故知新のパイオニア
今回ご紹介するのはジョン・ソーンです。
19世紀のイギリスで活躍した新古典主義建築を代表する建築家です。
18世紀のフランスで勃興した新古典主義は、その後さまざまな影響をヨーロッパ各地へ及ぼしていきました。
ギリシア古典様式を根源的な美として見直すことから始まった新古典主義運動ですが、
イギリスでは過去のさまざまな様式を自在に組み合わせていく折衷主義的な潮流として展開していき、その中で新古典主義様式に特化した建築家がジョン・ソーンでした。
ソーンは新古典主義建築やゴシック建築などさまざまな様式·要素を再構成し、独創的な空間、特に複雑で詩的な内部空間をデザインしました。
◯古代ローマの美に触れる
1753年、ソーンはイギリスのオックスフォードシャーで煉瓦職人の子として生まれました。
建築を学びながらソーンは、1771年にロイヤル・アカデミーオブ・アーツ(英国王立芸術学院)に入学、優れた成績を残し、奨学金を得てイタリアで学ぶチャンスを掴みます。
3年間イタリアへ留学し、1778年には最初の著書『建築のデザイン』を出版。さらに見聞を広げるためにローマを目指して旅行に出かけます。
これは当時、イギリスの裕福な貴族の子弟の間で流行った「グランド・ツアー」という、ローマを中心にヨーロッパ各地に遊学し、古代の文化を学ぶというものでした。
ソーンも友人とともにローマの建築物の測量図や平面図を一緒に作成したり、神殿やコロッセオを訪れたりして、見識を深めました。
「私の関心は、古代の計り知れない数多くの遺跡を見たり、調べたりすることに完全に集中している」とソーンも書き残しています。
ローマでは最終的に仕事が見つからなかったソーンは、1780年にロンドンに戻ります。
1788年には代表作となるイングランド銀行の監督に任用され、建築家としてのキャリアをスタートさせます。
続くピッッハンガー・マナーやサージョン・ソーン美術館でもソーン独自の複雑な内装デザインがいかんなく発揮され、現在でも多くの人びとを魅了しています。
◯新古典主義とは?
ここで新古典主義について解説したいと思います。
新古典主義とは、18世紀の後期にフランスではじまった建築様式で、古代の建築を理想とする流れです。
簡単に言えば「古典への立ち返り」といった運動で、絢爛豪華なバロック、ロココ様式に反発するように始まったとされ、同時代のイギリス、ドイツ、アメリカにまで波及しています。
古典建築を手本とする文脈で、ルネサンス建築と似た動きとも言えそうですが、新古典主義は考古学データに基づいて、より正確に古代建築を再現しようとするアプローチです。
それを可能にしたのは、古代遺跡の発掘による考古学的発見と、フランス革命の前後にうまれた合理主義的な建築観でした。
ポンペイ遺跡の発掘がはじまり、古代ギリシャ、ローマの美術全般についての研究が盛んに行われ、古代への関心と知見の深まりと共に、建築家は過去の様式を手本にそれらを再現しようとしました。
また、人間が生まれながらにして科学的、合理的な理性を持つと考えられるようになり、それに基づき建築の美を再現する試みが歓迎されました。
考古学的知見に基づいた古典の見直しと再表現はまさにそれに沿ったムーブメントでした。
ソーンが生きた時代は、こうした価値観のブームが根底にあったのです。
◯ソーンの代表作たち
ピッツハンガー・マナー
ソーンが大幅な改築を行い、家族で暮らした邸宅です。
当初は新築するつもりだったようで、ピッツハンガー・マナーの荘園が売りに出されているのを知り、購入し改築することにしたそうです。
ソーンはピッツハンガー・マナーを自身の建築デザインのコレクションとして設計しており、内部にはアーチ天井をはじめ、ソーンの内装デザインのエッセンスが詰まっています。
サー・ジョン・ソーン美術館
ソーンの邸宅兼スタジオを利用した美術館です。
ソーンが収集した古代ギリシアやローマの発掘品、美術品のほか、ソーン自身が手がけた建築図面や模型、絵画作品が所蔵・展示されています。
作品のジャンルや時代が複雑に混ざり合うような展示空間が演出され、独創的なトップライトやゴシック調のアーチが重なることで、内部空間全体が一つの芸術作品として高められています。
外見は一見普通ですが、古代のモチーフが散りばめられたドーム、可動式パネルが壁一面についた絵画室など、部屋ごとに様式や印象が異なり、多彩なソーンワールドが詰め込まれた空間です。
イングランド銀行
ソーンの代表作です。
1788年にソーンはイングランド銀行の建築家兼測量士に就任し、銀行全体を建て替え、大幅に拡張する工事を行いました。
5つの主要な銀行ホールは、同じレイアウトに基づき、長方形の部屋で構成され、中央には橋脚と穹隅によって支えられた大きなランタンがあり、
長方形の四隅には低い吹き抜けのスペースと、各側面の中央には中央のランタンを支えるアーチの高さまで上昇する仕切りが造られました。
残念ながらイングランド銀行はその後の大幅な改修によりソーンの設計は失われてしまっています。
ウエストミンスター宮殿
1822年、ソーンはウエストミンスター宮殿の貴族院の改造を依頼されました。
彼は、中庭に通じる入り口のある曲線を描くゴシック様式のアーケード、新しいロイヤル・ギャラリー、大階段、控え室を追加し、すべての内装は壮大な新古典主義様式で仕上げました。
◯家族問題に苦悩する
そんなイギリス建築界の旗手だったソーンでしたが、家族問題に常に悩まされていました。
ソーンは息子たちが建築家になることを望んでいました。
しかし、二人の息子たちの態度や行動は次第に道を踏み外すようになり、建築には全く興味を示さなくなっていました。
片方は怠け者で体調不良に悩まされ、もう片方は激しい気性の持ち主でした。
ソーンは息子たちから金を無心されたり、また息子が借金と詐欺の罪で投獄され親に迷惑をかけたりと、親子の関係は良好とは言い難かったようです。
ソーンの最愛の妻は後に体調を崩して亡くなりますが、体調不良の一因が息子たちのことによるストレスだったのではないかと言われています。
妻の遺体が埋葬された当日のソーンの日記には「この世で私にとって親愛なるものすべてを埋葬し、私が生きていたかったものすべてを埋葬した」と書いています。
ソーンは妻が埋葬された墓も設計しています。
墓はキリスト教様式ではなく、古代エジプトでは再生の象徴である松ぼっくりを象ったもので、
さらに永遠の象徴である自分の尾を飲み込む蛇、死の象徴である消えた松明を持つ少年の彫刻があしらわれていました。
歴史的建築を数多く残した天才も、プライベートでは親子関係に悩む苦労人だったんですね。
以上、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)からでした。