デザイナーたちの物語 ジョセフ・パクストン
弊社、大禅ビルが行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。
そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、
そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。
とは言え、私は専門的にデザイナーとしての教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。
本物のデザイナーというのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものだと思っています。
◯鉄とガラスの芸術家
今回ご相談するのはジョセフ・パクストン。
19世紀初頭のイギリスで活躍した造園家・建築家です。
農夫の子としてロンドン北西の村ミルトン・ブライアンに生まれ、若い頃から庭師として貴族の庭園管理に従事していました。
後に貴族の主任庭師に任用され、以後そこでの温室改良事業に取り組み、鉄とガラスを用いた新しい構造の温室を生み出しました。
チャッツワース、グリーンハウスを皮切りに、ノコギリ屋根の温室やスチーム暖房を備えた温室など数多くの温室を完成させ、
同時に排水設備や架構システムの開発において特許を取得、技術革新を進めました。
また、1851年には、ロンドンで開催された第1回万国博覧会の会場を鉄道技師チャールズフォックスとともに手がけています。
「クリスタル・パレス(水晶宮)」と呼ばれたその建築物は、鉄とガラスを中心とした100×500mを超える巨大構造物であったにも関わらず、約9か月という驚くべき短工期で建てられたパクストンの最高傑作です。
◯本業は庭師
パクストンは1803年に農家の7番目の息子として生まれました。
15歳から庭師として、いくつかの貴族たちの庭園管理に従事し修行を積みます。
1825年、第6代デヴォンシャー公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュにチャッツワースを紹介され、1826年にダービーシャー公チャッツワース1世に主任庭師に任ぜられます。
チャッツワース1世の庭園は、当時最も優れた庭園の一つとされていました。
パクストンは雇用主と友好的な関係を築き、自分の才能を発揮する場とキャリアアップの後押しを得ていきます。
チャッツワース公はパクストンの能力を高く評価し、段階的に業務の責任範囲を広げ庭園関係のほかに森林や道路の維持運営から財産管理、土地経営に関する件までも委任します。
パクストンは営業や経営の業務まで手広くこなし、ミッドランド鉄道会社の取締役など鉄道経営に参画するまでになります。
◯温室から拓いた建築領域
1828年からパクストンは温室改良に取り組み始めます。
それは、鉄やガラス張りで構築した全く新しい構造でした。
1832年、パクストンは温室に興味を持ち、エスパリエの木や、珍重されるパイナップルなどの外来植物を栽培するための機能を備えた一連の建物を設計しました。
当時、ガラスハウスの使用は始まったばかり。
試行錯誤の末、彼は朝日と夕日に直角になるような棟のある屋根と、光を最大限に取り入れる独創的なフレームデザインのガラスハウスを設計し、これが現代の温室の先駆けとなったのです。
パクストンは温室の領域でさらなる工夫を進めます。
1849年に、英領ギアナから移植されてきたビクトリアレジアというユリ科の植物の栽培に成功します。
温室でユリを育てながら、ユリの巨大な葉に触発された彼は、そこから温室の構造の着想を得て、放射状のリブを柔軟なリブで繋ぐことで剛性を実現しました。
その後何年にもわたって実験を繰り返し、後のクリスタル・パレスの前身となったガラス温室のデザインを考案しました。
安くて軽い木のフレームにガラス屋根を架け、光を多く取り入れるようにし、
雨水を逃がすための棟飾り、中空の柱を利用した排水管、内外の雨樋として機能する特殊な垂木を設計しました。
すべての要素がモジュール化され、大量生産によりさまざまなデザインに組み立てることができるようになっています。
1836年、パクストンは長さ69m、幅37mの巨大なガラス温室「大温室(ストーブ)」の建設に着手しました。
柱や梁は鋳鉄製、アーチの部材は集成材で作られました。
この温室は当時の世界最大のガラス建築物だったそうです。
中央に車道があり、イギリス女王が乗り込む時には1万2千個のランプで照らされるようになっています。
しかし第一次世界大戦中は暖房が効かず、中に植えられていた植物たちは枯れてしまい、1920年代に取り壊されてしまいます。
◯クリスタル・パレス
クリスタル・パレスは先駆的なガラスと鉄の構造技術の実験作であり、パクストンの最高傑作となる作品です。
この建物の誕生を可能にしたのは、ガラスと鋳鉄の製造技術の進歩と、ガラスへの課税がなくなったことによる原材料費のコストダウンでした。
クリスタル・パレス建設のきっかけは、1851年にロンドンで開催された万国博覧会。
会場造設の計画が暗礁に乗り上げていたところ、ピンチヒッターとして任命されたのがパクストンでした。
この作品の先駆性は、モジュール式プレハブ建築物であることと、ガラスを使っていることに集約されます。
クリスタル・パレスの規模は、長さ563メートル、幅124メートル、高さ33メートル。
これには4,500トンの鉄、5,600平方メートルの木材、約30万枚のガラスを必要とし、
同時代に発明された鉄道でイギリス中からかき集められました。
中央部分は高さ30mを超え、公園の樹木をすっぽりと覆えるようになっています。
しかしこれほどの規模の建築物でも、2,000人の作業員がわずか9カ月で建設し、費用は79,800ポンドでした。
これにより万博は成功をおさめ、パクストンはナイトの称号をうけます。
クリスタル・パレスはその後移築されますが、1936年、火災によって消失し、現在はその地にクリスタル・パレスの名前のみが残ります。
この建物は鉄とガラスという新技術のインパクトを示すものでした。
産業革命によってもたらされた鉄やガラスは、歴史的な様式を手がける旧来の建築家たちの手によってではなく、
別分野の、むしろ温室技師や鉄道技師といった技術者たちの手によって具現化されていった点が面白いですね。
1858年にパクストンを雇用していた公爵が亡くなると、パクストンは庭師から引退しましたが、それまで建設に加え、
リバプール、バーケンヘッド、グラスゴー、ハリファックス、スカボローといった都市の公園や自治体の埋葬地も手掛けていました。
そして彼は最終的に建設の仕事ではなく、鉄道事業の投資によって成功し、裕福になったそうです。
以上、大禅ビル(福岡市 赤坂 賃貸オフィス)からでした。