デザイナーたちの物語 ザハ・ハディッド
弊社、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)が行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。
そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、
そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。
とは言え、私は専門的にデザイナーとしての教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。
本物のデザイナーというのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものです。
■建築技術を超えたデザイン
さて、今回ご紹介するデザイナーはザハ・ハディド。
新国立競技場の設計監修で話題になったイラク生まれのイギリス人建築家です。
皆さんも記憶に残っているでしょうが、当時は新国立競技場の建設費用を巡って批判百出、最終的に白紙撤回されるというすったもんだがありました。
渦中の人物の一人であったザハ・ハディドの名前はその騒動と合わせて多くの日本人に知られ、そして突然の病死。世間を驚かせました。
そのような経緯もあってか、「無駄に建築費がかさみ、前衛的すぎる設計案で日本をかき回した外人デザイナー」というマイナスイメージが持たれる向きもあったようです。
新国立競技場のデザインと建築費が妥当であったかどうかを判断する知見は私にはありませんが、
彼女は世界に著名な建築家のであるという事実をご存知の方は、案外少ないのではないでしょうか。
ザハ・ハディドは「建築界のノーベル賞」と言われるプリツカー賞を女性個人で初めて受賞した建築家であり、
また、約150年に及ぶ歴史を持つ建築界で最も権威のある賞、ロイヤル・ゴールド・メダルも受賞されています。
彼女が創業した「ザハ・ハディド アーキテクツ」は、ロンドンを拠点に世界中に分室を構え、総勢400人以上のスタッフが働く一大デザインスタジオです。
彼女の作品はそれこそ世界中に建てられていますが、日本で手掛けた数少ない作品は現存しておらず、それが彼女の名前が日本で知られていない一因なのかもしれません。
ザハ・ハディドのデザインの特徴は、一言で言えば
「奇抜さ」
それも普通の奇抜さではなく、常識を根底から揺さぶってくるような圧倒的な奇抜さ、「こんな風に曲線を使うか!?」と驚かせてくる奇天烈とさえ言ってもいいデザインなのです。
どれくらい奇抜だったかと言いますと、デザインされても技術的に建設できなかったほどだったのです。
コンペなどで優勝しても、建てられないのが彼女のデザインでした。
そのためザハ・ハディドは「アンビルト(建たず)の女王」、
彼女の建築は「ペーパーアーキテクト(前衛的すぎてスケッチの段階を超えて実際に建築されない)」と呼ばれるようになり、一際異彩を放つ建築家として注目されるようになります。
ただ、建築家本人にとっては建物が建てられないのは世に認められないことでもあるので、ずいぶん長く苦労されたようで、
無名時代に大規模案件の資金提供者が約束を反故するといった辛酸も舐めさせられたようです。
近年では建築技術の進歩により、ダイナミックな造形を支える構造計算が可能となり、建築可能となったザハデザインが増ていきました。
技術がやっと彼女のデザインに追いついたとも言えますね。
■インスピレーションは古代文明から
ザハ・ハディッドは1950年10月31日、イラクのバグダッドで上流階級の家庭で生まれした。
彼女の父は裕福な実業家であり、後に政界に進出し、政党党首、そして大臣にまで栄達します。
一方、母親は芸術家でした。
ザハ・ハディドの美的センスは、まず母親から与えられたのだと思います。
彼女の建築に対する興味の始まりは、10代頃に世界最古の文明の一つであるイラク南部の古代シュメール地方を訪れたことでした。
シュメールは人類最古の都市文明が興った地です。
皆さんも教科書などで楔形文字が刻まれた粘土板の写真をご覧になったことがあるかと思います。
幼いザハ・ハディドはそこで目にした村々、砂、水、葦、鳥、建物、人々が織りなす美しい風景から忘れがたい印象を受けたと後に語っています。
ザハ・ハディドの一家はムスリムでしたが、親はじめ欧米文化にもオープンであったため、彼女はカトリック系のフランス語学校に通うようになります。
そこはイスラム教徒とユダヤ教徒の生徒が机を並べて勉強したり、一緒に遊んだりするような寛容的な雰囲気の学校でした。
家族の期待を受け、レバノンのベイルートにある無宗派の名門大学、アメリカン・ユニバーシティに留学、数学を専攻します。
まもなく故郷のイラクでサダム・フセインが権力を握り、世情がにわかに騒がしくなったため、家族はイラクを脱出。
うちザハ・ハディドは渡英し、ロンドンのAAスクール(私立建築学校英国建築協会付属建築専門大学)で建築を学びました。
卒業するとAAスクールの教師でもあったオランダ人建築家、レム・コールハースの設計会社「オフィス・オブ・メトロポリタン・アーキテクチャ」で働き始め、3年後に独立して自分の事務所を構えました。
当初は実際のデザインより、建築家協会での講義がメインだったようです。
自身のノートに描いたユニークなデザインが建築雑誌に掲載されたり、ギャラリーで展示されたりといった機会に恵まれ、そのうちデザインコンペに参加するようになります。
■これから世に出る遺作たち
1983年、ザハ・ハディドは香港のレジャー・レクリエーションセンター「ザ・ピーク」のコンペで優勝し、国際的な評価を勝ち取りました。
床が空中にばらばらに浮いているような斬新過ぎる彼女のデザイン案は落選しかけていたのですが、その才能を拾い上げて一等に推したのが、当時審査員を務めていた日本人建築家、磯崎新でした。
結局「ザ・ピーク」のデザインの建設は実現されずに終わるのですが、彼女が世に出る足掛けとなったコンペの一つだったと言われています。
ハディッドの「ピーク」は実現しませんでしたが、1980年代から90年代初頭にはベルリンの「クルフュルステンダム」、
デュッセルドルフ芸術メディアセンター、ウェールズの「カーディフ・ベイ・オペラハウス」など、他のほとんどの急進的なデザインは実現されています。
そしてザハ・ハディド亡き後も、彼女が残した遺作は世界中で次々と実現され、スタジオを継いだ弟子たちも新作を発表し続けています。
残されたスタッフたちの手によって完成された作品の一つがサウジアラビアにある「アブドラ国王石油調査研究センター」です。
もはやSF世界の未来感。ザハ・ハディド一流の感性が炸裂していますね・・・。
ただただ凄いとしか言いようがない。
これからも亡きザハ・ハディドの遺作がどんどん具現化されていくでしょう。
技術がその背中を追う天才の作品を、いつか私も実際に見てみたいものです。
以上、大禅ビルからでした。