デザイナーたちの物語 クロード・ニコラ・ルドゥー

弊社、大禅ビルが行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。

 

そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、

 

そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。

 

とは言え、私は専門的にデザイナーとしての教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。

 

本物のデザイナーというのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものだと思っています。

 

◯フランス革命期を生きた建築家

今回ご紹介するのは近代フランスの建築家、クロード・ニコラ・ルドゥーです。

 
ルドゥー
 

彼は専門的な建築教育は受けておらず、いくつかの工房で働きながら実務を学んだそうです。

 

ルイ5世の公妾デュ・バリー夫人に気に入られていたルドゥーは、その後押しもあり1770年代には王室建築家の称号を得て、アルケスナンの王立製塩工場などを手がけました。

 

しかし1789年のフランス革命を機に投獄され、実作の機会を失ってしまう。

 

その後は実現しなかった計画案の整理や著作に専念し、架空の建築や都市を描いた幻想的なドローイングを数多く残しました。

 

彼は「幻視の建築家」とも呼ばれ、厳格な立方体のシルエット、直線的な構成、半円のドーム、ドーリア・トスカナ式の様式を重視するなど、それまでの新古典主義における古代ギリシア、ローマの様式の再評価や引用にとどまらない、純粋幾何学に基づいた新しい建築の可能性を示しました。

 

1952年に出版された建築史家エミール・カウフマンの『三人の革命的建築家―ブレ、ルドゥー、ルクー』では、後のモダニズム建築に影響を与えた革新的な存在として評価されています。

 

◯現場から叩き上げ、そして公共建築へ

ルドゥーは1736年、シャンパーニュ地方の商人の息子として生まれました。

 

幼い頃から母に励まされ、絵の才能を伸ばしていったという。

 

後に修道院から資金援助を受け、パリで古典の勉強をしました。

 

17歳を卒業した彼は、彫刻家として働きますが、その後有名な建築家に師事。

 

縁にも恵まれ、ルドゥーの師匠たちは彼を富裕層の顧客に紹介します。

 

そこでルドゥーは最初のパトロンの一人であるクロザット・ド・ティエール男爵から知遇を得ます。

 

その後、カフェ、庭園、公園、私邸、教会、橋、井戸、噴水、学校などの改築や設計に携わっていきました。

 

この時期の作品としては、

 

マラックの橋

 

ロランポンのプレジベール橋

 

フーヴェン・ル・オー

 

ロッシュ・エ・ロークール

 

ロランポンの教会

 

クルジー・ル・シャテルの身廊と門

 

サン=テティエンヌ・ドーセールのクワイヤ

 

などが現存しています。

 

◯代表作

ここでルドゥーの代表作を幾つかご紹介します。

 

アルケスナンの王立製塩工場

 
ルドゥー
 

ルドゥーは王室行政局の仕事に興味を持ち、公共建築に関心があったため、そこで政府から近代的な塩田工場の設計という事業を任されます。

 

1771年、ルドゥーは製塩所の検査官に昇進し、1790年までその職に就いています。

 

ルドゥーが手掛けた塩田はフランス東部のドゥー県アルケ・スナン市にあり、ここで彼は理想の工業都市を目指していました。

 

王室の承認を得て設計された製塩所はルドゥーの最高傑作とされています。

 

初期の建築工事は、新たな理想都市のための大規模で壮大な計画の第一段階として考えられていました。

 

1775年から1778年にかけて、最初の(そして結果的には唯一の)建築が建設されました。

 

 

弧の上には、協同組合の鍛冶屋、鍛造工場、労働者のための2つの区画があります。

 

直線の直径には、塩精製のための作業場と管理棟が交互に配置されています。

 

中央には長官の家があり、もともとは礼拝堂もありました。

 

幾何学的な設計を追求した結果、円形の都市計画がルドゥーによって提示されましたが、資金難などの理由により半円状に縮小されて完成することとなります。

 

製塩所は塩水湿地との競争のため、利幅は薄く、最終的に1790年にはフランス革命による国家の不安定化の中で無期限閉鎖の憂き目に遭います。

 

しかしながら当時の都市計画の考え方を残すものとして高く評価され、今では世界遺産にも認定されています。

 

ラヴィレットの関門

 
ルドゥー
 

パリ東北部ラ・ヴィレットに建つ、通行税を取り立てのための関門の1つです。

 

円筒形などの単純な幾何学的形態を組み合わせて、古典建築の様式を簡略化しています。

 

ルドゥーは革命前のフランスで王室建築家として、同様の関門をパリ市内50か所以上に設計していましたが、これはその頃に建てられたルドゥーの代表作です。

 

ベヌーヴィル城

 
ルドゥー
 

ノルマンディー地方ベヌーヴィルにある建物です。

 

1769年にルドゥーによって設計され、リヴリー侯爵の依頼により、1776~80年にかけて建設されました。

 

後にカルヴァドス県議会の所有となり、1980年に修復され、1990年に一般公開されています。

 

ブザンソンの劇場

 
ルドゥー
 

外観は厳格なパラディオ式の立方体として設計され、6本のイオニア式円柱で構成されたギリシャ風の劇場です。

 

フランスの地方では公共の娯楽施設が少なく、あっても貴族だけが席に座ることを許され、それ以下の身分の者は立ったまま鑑賞しなければいけない伝統がありました。

 

これに対しルドゥーは、ブザンソン劇場の設計に平等思想を込め、観客全員が着席できるようにしたのです。

 

彼の計画は革命的とまではいかないまでも、過激なものと捉えられることもありました。

 

しかしルドゥーは県知事の協力を仰ぎ、改革案の同意にこぎつけます。

 

ただ、貴族は平民と同じ席に座ることを好ましく思わなかったため、この劇場では社会階級の分離は変更されず、1階の円形劇場には一般客用の座席が設置され、その上には公務員のための高台テラスやバルコニーが設えることになります。

 

またさらにその上には貴族のためのボックス席があり、その上には中産階級のための小さなボックス席が設置されました。

 

このようにしてルドゥーは、劇場を社会的な交流の場、共有の娯楽の場とすると同時に、当時ではまだ一般通念だった厳しい階級社会の要請にも応えたのです。

 

技術面での革新は、舞台裏や舞台装置を拡張し、それまでの劇場よりも奥行きを持たせるなど、多くの近代的な改良を行っています。

 

◯時代を先取りしすぎたデザイン

ルドゥーの作品は建設当時、「誇大妄想」と批判を受けましたが、後に急進的な新古典主義者として評価されていきます。

 

1930年代には、ルドゥーの建築設計はモダニズムの抽象的な建築を先取りしたものとみなされ、最近ではポストモダンのイメージの源として再評価されています。

 

以上、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)からでした。

 
ルドゥ
 

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