クリスチャン・ディオール
弊社、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)が行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。
そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、
そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。
とは言え、私は専門的にデザイナーとしての教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。
本物のデザイナーというのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものです。
今回もそんな天才デザイナーの一人をご紹介します。
■イヴ・サンローランの師匠
ファッションブランド「クリスチャン・ディオール」を一代で築き上げた巨匠、クリスチャン・ディオール。
前回ご紹介した「YSL」の創始者、イヴ・サンローランの才能を最初に見出した人物でもあります。
意外と知られていないのは、ディオールが自身のブランドを創設したのは41歳になってからです。
20歳そこらで出世した天才、イヴ・サンローランと比べるといかにも大器晩成な人物ですが、亡くなるまでのわずか12年の間に今日まで続くブランドを打ち立てた偉業は他の追随を許しません。
■苦労と不幸の連続
ディオールは1905年、フランス・ノルマンディー地方の海岸沿いにある海辺の町グランヴィルで生まれました。
裕福な肥料メーカーの家で生まれ、5人兄妹の2番目の子どもでした。
性格は控え目で、キラキラしたもの、美しいもの、花模様をみて、空想が大好きな少年だったそうです。
アーティスティックなディオールは芸術に携わることを望んでいましたが、父親は彼が外交官になることを望み、彼も父の言いつけ通りに名門のパリ政治学院に進学します。
しかし芸術への思いは捨てきれず、ファッションのスケッチを描いては1枚10セントで売りながら、いつしか勉強よりも芸術に入れ込むようになります。
このような調子だから学業を断念するのも時間の問題でした。やがて学校を中退し、父親から資金援助を受けて小さな画廊を開き、パブロ・ピカソなどの作品の販売を始めました。
つまりアートビジネスで創業したわけです。父親も息子に根負けしたと見えますね。
しかしこの画廊は3年後、ディオールの母親と兄の死、そして世界恐慌の煽りを食らって家業が破産したことで閉鎖を余儀なくされ、
裕福な暮らしから一転、無一文の身に落ち、さらに泣きっ面に蜂と言わんばかりに結核を患ってしまう。
ディオールが25歳の頃の話です。
■長い下積み時代
結核から癒えた後、ファッションの世界に関心があったディオールは、スイス人のファッションデザイナー、ロベール・ピゲにスケッチが認められ、
ピゲのコレクションのデザインを担当する機会を得ます。
第2次世界大戦が始まるまではピゲのオートクチュール・メゾンで働き、1年間の兵役の後、
ルシアン・ルロングのファッション・メゾンに入社し、デザイナーとして活躍します。
第二次世界大戦中、ナチスに占領された故郷フランスでディオールはナチス将校やフランス人の協力者の夫人たちのドレスのデザインに従事させられていました。
自分の才能を望まぬ形で発揮せざるを得なかった苦渋の時期だったと言えるかもしれません。
■41歳の転機と決断
長らく下積みを経たディオールは、いつか自分のブランドを持ちたいと思いつつも、踏み切る自信がなくくすぶっていました。
そんな中、フランスの大富豪として知られるテキスタイルの実業家、マルセル・ブサックが新しいデザイナーを探しているという話をディオールは友人から聞きます。
独立創業の決断になかなか踏み切れずにいたディオールでしたが、この友人に偶然にも3度も会ったことで神の導きだと思い、ブサックと会うことにしたのです。
ブサックは、とある老舗のファッション・ブランドのデザインをディオールに依頼しますが、
ディオールは、古いブランドを復活させるのではなく、自分の名前で新たなスタートを切りたいと考え、自分が思い描くブランドについてここぞとばかりに熱く語ります。
その熱意に動かされたブサックは、全く無名の41歳のディオールに600万フランを投資することに決め、ファッション界で話題となります。
ここから亡くなるまでの12年間、ディオールは全生命を傾け、ファッションの歴史のその名を刻むのでした。
■ニュールック旋風!
1947年2月12日に発表された最初のコレクション「Corolle(コロール;花冠)」はディオールの鮮烈なデビューとなりました。
膝下まで届くスカートは腰からはみ出すように膨らみ、ウエストはコルセットでスズメバチのように細く、ヒップにはパッド、
大きく丸く張り出した胸元のラインは、パッドなしの肩のなだらかなラインとコントラストをなし、曲線的なフェミニンなフォルムを醸していました。
広がる花のイメージからインスピレーションを得て、柔らかい丸みを帯びたフェミニンなスタイルを打ち出したのです。
ディオールが発表したスタイルはやがて「ニュールック」と呼ばれるようになります。
この時代はパリでは角ばったファッションが流行していましたが、ディオールはそれを真っ向から否定するものでした。
それだけでなく、戦後の物資不足だった時代に、シルク、ウール、サテンといった高級生地を贅沢に使ったディオールのファッションは世間の猛反発を食らい、
メディアの集中砲火に加え、街中ではモデルが主婦に襲われて服が破られるなどの事件も起きました。
窮屈な衣服に束縛されていた女性の体を、過剰な装飾を排した機能的なファッションによって自由に解き放った同時代のデザイナー、ココ・シャネルもディオールのニュールックに対し
「女性を知らない、女性を持ったことがない、女性になることを夢見ている男が作った服を着ている女性たちがどれほど馬鹿げているか見てごらんなさい」
と辛辣。それだけにディオールのニュールックは革命的だったのです。
物資不足が解消され、イギリスの王族やアメリカのハリウッドでニュールックが着られるようになると反対意見も収束していき、
「ニュールック旋風」となって世界中の女性を虜にし、戦後のパリを再びファッション世界の中心地として押し上げるパワーを揮いました。
日本でも、美智子上皇后陛下がかつてご成婚時に身につけられていた礼装、ローブ・デコルテもディオールの手によるデザインです。
■ファッション界の帝王へ
その後もディオールは亡くなる直前まで、毎シーズンごとに180度異なるコンセプトのコレクションでファッションを驚かせ、売名行為だという批判にもめげず、
飽くなき破壊と革新を繰り返す中で数々の斬新かつエレガントなモードを世に送り出しました。
ニュールック発表後、ディオールは大量制作の体制の整備に乗り出します。
多い時では1000人を超える従業員を雇い、世界中に支店を開設し、フランスのオートクチュールの輸出の75%を占めるほどにまでになり、
亡くなるまでに販売した服は10万着、使われた布地は1500km、手がけたデッサンは1万6千枚にも及ぶ。
「情熱はすべての美の秘訣です。情熱のない魅力的な美など、存在しません」
そう語るディオールは、花好きな少年から、文字通りファッション界に帝王として君臨していったのです。