デザイナーたちの物語 オーガスタス・ウェルビー・ノースモア・ピュージン
弊社、大禅ビルが行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。
そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、
そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。
とは言え、私は専門的にデザイナーとしての教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。
本物のデザイナーというのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものだと思っています。
◯イギリスにおけるゴシック・リバイバルの先駆者
今回ご紹介するのはオーガスタス・ウェルビー・ノースモア・ピュージン。
なかなか長い名前ですね。
イギリスの建築家、デザイナー、評論家であり、主にゴシック・リバイバル建築の先駆者として知られています。
ロンドンのウェストミンスター宮殿の内装や、ビッグベンの時計盤といった世界的なランドマークを設計したことで知られています。
ゴシックリバイバルとは、古き良きゴシック建築にこそ本質的な美が宿るとし、イギリスを発祥に、18世紀後半にはフランス、ドイツに、その後イタリア、ロシア、アメリカにまで広がった動きですが、
そしてゴシック・リバイバルの展開に最も影響を与えたのが、ピュージンでした。
◯ゴシック建築に魅入られた男
ピュージンはフランスからイギリスへ亡命した銅版画家の父のもと、1812年にロンドンで生まれした。
ピュージンは父から絵を習い、その後は父の事務所で働きました。
金細工や家具、舞台装置のデザインの仕事を請けながら、航海にも興味を持ち、イギリスとオランダを行き来する小さな商船の船長をしていたこともありました。
折しも、ゴシック・リバイバル様式の建築物が増えてきたため、歴史的実証に添った彫刻を施した木や石といった加工部材を提供するビジネスを立ち上げましたが、すぐに失敗に終わってしまう。
1834年にカトリック教会に改宗してからパトロンが付き、ゴシック建築により情熱を傾けるようになります。
彼が目指すゴシック建築は、もっとも高貴な13世紀後期から14世紀初期の「第二期尖頭式」と言われるものでした。
◯ゴシック・リバイバルとは?
ゴシック・リバイバルについて説明しますと、これは18世紀後半から19世紀にかけて興ったゴシック建築の復興運動で、ネオ・ゴシック建築とも呼ばれます。
ロマン主義やピクチャレスクの流れから、ある種の文人趣味として捉えられていたゴシック・リバイバルでしたが、ピュージンの登場によって理論的に整理されていきます。
1836年に『コントラスト』を出版し、中世のゴシック様式の復活と「中世の信仰と社会構造への回帰」を主張します。
『コントラスト』では都市の建築に関して、15世紀のものと19世紀のものと対比させています。
その比較の極端な例として、ピュージンはそれぞれを「修道士が貧しい人々に食事や衣服を与え、庭で食べ物を育て、死者をきちんと埋葬する中世の修道院」と、「貧しい人々が殴られ、半分飢えていて、死後に解剖のために送り出される施設」とに比喩させて、それぞれの建築が表象する人間観を痛烈に対比させています。
また、ピュージンは1841年には『ゴシックのキリスト教教会の原点』を出版。
中世は誠実なキリスト教の時代であり、ゆえに中世の建築家は誠実な職人であり、そして中世のゴシック建築こそが社会の基準となるべき建築であると主張しました。
彼は中世ゴシック建築が古典建築に比べて構造的・機能的・装飾的に優れていることを理論的に示し、それを自らの建築作品を通して証明しようとしました。
彼の機能主義的な理論はやがてその後の教会建築の規範となっていきます。
◯教会専門の建築家
ピュージンは教会建築を多くてがけ、代表作に1841年から1846年にかけて設計したスタフォードシャーのチードル教会や、1842年から1844年にかけて設計したノッティンガム大聖堂、1848年にできたサザークの聖ジョージ大聖堂などがあります。
私生活では、1831年に結婚したが1年後に妻に先立たれ、1833年には再婚したが1844年にまた先立たれ、再び1849年に再婚しますが、1851年に今度は本人が精神に異常をきたしてしまったという・・・。
ここで彼の代表作を幾つかご紹介します。
イギリス国会議事堂(ウェストミンスター宮殿)
チャールズ・バリーによる新国会議事堂コンペ案をもとに、バリーが平面・立面・断面の計画を立て、ピュージンがゴシック様式の装飾部分を担当しました。
結果として、バリーによる極めてピクチャレスクな構成と、ピュージンによる密度の高い後期ゴシックの装飾が融合した、完成度の高い荘厳華麗な建築となりました。
ちなみに、イギリス国会議事堂設計時のピュージンの貢献度について、バリーのアシスタントに過ぎなかったという説、ゴシック様式の建築家としてバリーの代わりを務めたという説など、評価は分かれます。
両者の死後、それぞれの息子がまたさらに論争を繰り広げていったのでした。
セント・オーガスティン教会堂
中世ゴシック様式を再現した非対称の教会です。
ピュージン自邸の隣に建ち、彼自身が出資者となって施工、完成させた教会です。
ここでは、 ピュージンが最も評価していた13~14世紀の中世ゴシック様式が考古学的に正確に再現されています。
一方、塔の配置は初期のネオゴシック様式の教会と違って、意図的な非対称とされており、19世紀イギリスの教会建築に影響を与えたとされています。
ビッグ・ベンの時計盤
晩年のピュージンをバリーは訪ね、ピュージンはウェストミンスター宮殿の時計塔の文字盤のデザインを提供しました。
直径7mの鉄枠に312個の乳白ガラスがステンドグラスのようにはめこまれ、文字盤の周囲には金めっきが施されています。
それぞれの文字盤の下には金文字のラテン語で『DOMINE SALVAM FAC REGINAM NOSTRAM VICTORIAM PRIMAM(主よ、我らが女王ヴィクトリアに御加護を)』と刻まれています。
これがピュージンが精神病に患う前の最後の設計でした。
聖チャド大聖堂
ピュージンによって設計され、1841年に完成した聖チャド教会は、イギリスの宗教改革後に建設された最初の4つのカトリック教会のうちの1つであり、後に大聖堂に昇格しました。
細いブローチ状の尖塔を持ち、敷地が急斜面であったため、建物の下には大きな地下室が作られ、墓としました。
このように、中世キリスト教会社会を理想と考えたピュージンは、ゴシック様式の正当性と合理性を理論と実作で示していったのです。
以上、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)からでした。