デザイナーたちの物語 エドウィン・ランドシーア・ラッチェンス

弊社、大禅ビルが行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。

 

そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、

 

そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。

 

とは言え、私は専門的にデザイナーとしての教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。

 

本物のデザイナーというのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものだと思っています。

 

◯カントリーハウスの天才

今回ご紹介するのはエドウィン・ランドシーア・ラッチェンス。

 
ラッチェンス2
 

伝統的な建築様式をその時代の要求に合わせて想像力豊かにアレンジしたことで知られるイギリスの建築家です。

 

イギリスの多くのカントリーハウス、戦没者慰霊碑、公共施設などを設計し、「20世紀で最も偉大な英国の建築家」と評価されています。

 

20歳のときにロンドンで独立すると「アーツ・アンド・クラフツ運動」への好みが明らかな、田園的な住宅作品を数多く手がけ、それらの中には、イギリスで今も続く週刊誌『カントリーライフ」の創立者の家、ディーナリー・ガーデンがあります。

 

この週刊誌は、アーツ・アンド・クラフツ運動による住宅の支持層を読者に多く持ったようで、その創立者の家を設計していることは彼の作風をよく物語っていると言えます。

 

ラッチェンスの建築家人生は 1912年に大転機を迎えます。

 

イギリス領インド帝国の首都移転に際して、その計画委員会の建築家にラッチェンスが指名されたのです。

 

これには、インド総監を務めたリットン伯爵の長女が彼の妻である、という背景があったようです。

 

都市や建築物の設計が完了したのは1931年のこと。

 

約20年かけて、壮大なバロック的都市ニューデリーが完成しました。

 

緑が多く田園都市的でもある点は、どこかラッチェンスらしさを感じさせますが、大統領官邸やインド門を見ると、彼のその後の作風はアーツ・アンド・クラフツから古典主義へと移ったようです。

 

西洋の古典主義をベースにインド建築のモチーフ、材料を折衷した巧みなデザインがなされています。

 

ニューデリー建設の功績が認められ、ニューデリーは「ルティエンスのデリー」とも呼ばれています。

 

ニューデリーでは、ハーバート・ベイカー卿と共同で、インド門などのモニュメントの設計を担当したほか、現在はラシュトラパティ・バンとして知られている総督邸の設計も行いました。

 

彼の作品の多くは、インドの建築物からインスピレーションを受けています。

 

◯イングリッシュガーデンの先駆け

1869年、ラッチェンスはロンドンのケンジントンで、画家の息子として生まれました。

 

13人兄弟の10番目だったので、ほぼ末っ子ですね。

 

1885年から1887年まで、ロンドンのサウス・ケンジントン美術学校で建築を学び、大学卒業後は建築事務所に就職。

 

1888年に独立し、最初の仕事は個人住宅の設計でした。

 

この仕事の中で、ガーデンデザイナーで園芸家であるガートルード・ジキルと出会います。

 

1896年には、ラッチェンスはジキルの私邸の建設に着手します。

 

これが、多くのラッチェンス・カントリーハウスの様式を決定づけるきっかけであり、キャリアのスタートでもありました。

 

ルーティンス・ジキルの庭園は、階段や手すり付きのテラスなどの構造の中に、丈夫な低木や草本の植物が植えられていました。

 

フォーマルとインフォーマルを組み合わせたこのスタイルは、19世紀で一般的に好まれるレンガの小道や、ユリやルピナス、デルフィニウム、ラベンダーといった花を使わない設計デザインとなっていました。

 

このスタイルが、現代に至るまで「イングリッシュガーデン」の定義となっていきます。

 
ラッチェンス2
 

ルーティンスの名声は、エドワード・ハドソンが創刊した新しいライフスタイル誌『カントリー・ライフ』に、彼の設計した住宅が数多く掲載されたことで大きく高まりました。

 

ハドソンは、ルーティンスのスタイルをこよなく愛し、リンディスファーン城や、ロンドンのタビストック・ストリート8番地のカントリー・ライフ本社ビルなど、多くのプロジェクトをルーティンスに依頼しました。

 

ラッチェンス初期の作品の大部分は、イングランドのチューダー建築やイングランド南東部のヴァナキュラー様式に強い影響を受けたアーツ・アンド・クラフツ様式の個人住宅でした。

 

1900年頃を境に、ラッチェンスのこのスタイルはより伝統的な古典主義へと移行していきますが、この方向転換はイギリスの建築界に大きな影響を与えました。

 

彼の依頼は、個人住宅から、ロンドンのハムステッド・ガーデン・サバーブに建設された教会、デヴォン州ドルースティグントン近郊にあるジュリアス・ドリューのキャッスル・ドロゴ、さらには後述するインドの新帝都ニューデリーへの貢献(ハーバート・ベイカーらとともに主任建築家を務めた)など、多岐にわたっています。

 

第一次世界大戦終結前には、帝国戦没者墓苑委員会の主任建築家の一人に任命され、戦没者を記念する多くのモニュメントの制作に携わりました。

 

1924年には、ラッチェンスは彼の作品の中で最も人気を博すことになる作品、「メアリー王妃の人形の家」を完成させました。

 

12分の1の縮尺で作られた4階建てのパラディオ様式のヴィラで、現在はウィンザー城のパブリックエリアに常設展示されています。

 

このミニチュアは、子どもたちの遊び道具として考えられたものではなく、当時のイギリスの最高の職人技を発信する目的で作られました。

 
ラッチェンス
 

◯ラッチェンスの代表作

ラッチェンスの代表作を3つご紹介します。

 

ティグボーン・コート

 
ティグボーン
 

アーツ・アンド・クラフツ様式のカントリーハウスです。

 

17世紀のヴァナキュラー建築と古典的な要素を組み合わせており、その幾何学性と質感から「ラッチェンスの最高傑作」との呼び声も高い。

 

インド大統領官邸

 
ラッチェンス7
 

元インド帝国総督官邸、現在の大統領官邸となっています。

 

西洋の古典主義を基礎としつつも、ストゥーパ(ブッダの墓で、仏教における礼拝の中心的対象)を思わせる中央ドームやチャトリ(庇付きドームなどを柱のみで支えた、インド建築の特徴的要素)風の塔屋、塀の上部を飾る象の彫刻や、建物全体に使われるインド産の赤砂岩、黄砂岩など、インド建築らしい要素が随所に散りばめられています。

 

1912年にカルカッタに代わりイギリス領インドの政府所在地に選ばれたニューデリーの都市計画を担ったのがラッチェンスでした。

 

彼はこの事業に20年以上もの歳月をかけており、さらにここからラッチェンス独自の古典建築の新しい様式「デリー・オーダー」を生み出しました。

 

それまでの伝統的なイギリス人建築家とは異なり、ラッチェンスはインドの王朝遺跡や伝統建築を巧みに取り込んだ「西洋古典主義とインド伝統建築の融合」とも言うべき都市計画を行ったのです。

 

インド版凱旋門

 
ラッチェンス7
 

ラッチェンスがキングスウェイ東端に設計した門。

 

フランスの凱旋門をもとに、 第一次世界大戦の戦没者慰霊のためのモニュメントとして設計されました。

 

以上、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)からでした。

 

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