エストニアと日本の交流物語②

■進まぬ国家の承認

 

なぜ日本を始め、欧米列強はエストニア臨時政府に対して事実上の承認しか与えなかったのでしょうか?

 

まず当時の日本の外交にとって前回のコラムでも書いたように、エストニアとの国交の優先度は低かったためです。

 

2018年1月に安倍首相が遥々エストニアにまで足を運ぶ今日と比べて、日本におけるエストニアの存在感には隔世の感があります。

 

また一つの国を独立国家として認めるかどうかは、今の台湾と中国を見てもわかるように、

 

世界情勢と他国との関係も併せて、高度な政治的検討が要求されるインパクトの大きい判断です。

 

頼まれたからじゃあ国家でいいよ!

 

というわけにはいかないのが、国際政治でしょう。

 

事実イギリスとフランスは、非共産主義国である限りにおいてエストニア臨時政府に事実上の承認を与えていましたが、法律上の承認を与えるつもりは毛頭なく、

 

アメリカに至っては将来的なロシアの民主統一の邪魔になるとして事実上の承認さえ拒否していました。

 

国際社会から立場を認められるようエストニア臨時政府は懸命に働きかけたものの、混迷複雑な国際情勢の中、その悲願実現は一筋縄ではいかなかったようです。

 

■第二次世界大戦前のエストニアと日本のエピソード

1929年に両国間で査証廃止が合意されるものの、公館の設置という一歩踏み込んだ外交の動きには至らず、

 

ラトビアの首都リーガに設立した日本の公使館がエストニアの公使館の役割を兼ねました。

 

両国の関係史で特筆すべきは、1934年に中国大連の満州国でのエストニア領事館の設置です。

 

関東軍主導で建国された「満州国」を、諸外国は「傀儡国家」として国家の承認を行わず、

 

エストニアも最後まで「満州国」を承認しませんでしたが、なんとその所領内に位置する大連の領事館を新しく開設したのです。

 

エストニア人実業家のアルフレッド・ルーテ(Alfred Ruthe)が名誉領事に赴任し、1940年まで活動を続けました。

 

エストニアが大連で領事館を設置するのに併せて、日本の外務省でもエストニアで日本領事館の開設を検討するようになります。

 

1935年にタリンに日本領事館の開設、名誉領事にエストニア実業家、ヴォルデマル・プフク(Voldemar Puhk)が発表され、プフクには昭和天皇から御委任状が送られました。

 
プクフ
 

プフクは親日家だったようで、エストニアと日本の関係促進に熱心でした。

 

プフクは明治政府の官吏が着る大礼服を希望されたので、外務省は三越に礼服を発注します。

 

しかし不幸にも、プフクは大礼服を受けることなく1937年に心臓病で急死、残された大礼服は、後に外務省の計らいでプフク夫人に贈呈されました。

 

ラトビアのリーガの日本公使・佐久間信がエストニア共和国独立20周年記念式典に出席した際、直接プフク夫人の許を訪れ、プフクが着るはずだった大礼服を渡したそうです。

 

この心遣いに対する夫人の感謝を綴った手紙は、今でも東京の外交史料館に残っているそうです。

 

時は第二次世界大戦開戦前夜、東西両国を結ぶ小さな物語でした。

 

■関係の一時中断

欧州の戦争情勢が緊迫するにつれて、情報収集のためタリンへの外交官常駐が日本の外務省内で検討されるようになります。

 

というのもプフク亡き後、後任が置かれず、領事館機能は停止したままだったからです。

 

こうして1939年に外交官事務所が開設、一等書記官として島田滋が赴任します。

 

しかし既に3ヶ月前に世界大戦の火蓋が切って落とされ、活動という活動が許される状況ではなかったのです。

 

ナチス・ドイツとソ連の間で独ソ不可侵条約付属秘密議定書が交わされ、そこにはエストニアをソ連邦の勢力範囲に入れるという密約が盛り込まれていました。

 

外交官事務所の開設からわずか半年後に、ソ連の圧倒的な軍事圧力を前にエストニアは屈します。

 

親ソ政権の「人民政府」が成立、これを受けて新しく成立した「エストニア・ソビエト共和国」はソ連へ編入されます。1940年の出来事でした。

 

ここに独立主権国家としてのエストニアは消滅、独立建国からたった20年ほどの短い独立でした。

 

ソ連側はさらに、自領に対する支配力強化のため、日本をはじめ諸外国に対して領事館など外交機関の即時廃止を強硬に要求、最終的に島田は事務所を閉鎖してタリンから撤退します。

 

ラトビアのリーガ、リトアニアのカウナスそれぞれにあった日本領事館でも、似たような形で事態が進行しました。

 

ちなみにこのときリトアニアで領事代理を務め、独断で約6000人のユダヤ系難民に命のビザを発給したのがあの杉原千畝です。

 
杉原千畝
 

欧州、中東における外交、ビジネスなど様々な場面において、今日でも日本は多く彼の恩恵に浴しています。

 

自国にいるとなかなか実感しにくいですが、日本人の我々はその有り難い事実をもっと噛みしめるべきでしょう。

 

さて、日本の外務省はバルト諸国の公使館閉鎖を正式に決定し、同時にソ連邦によるバルト諸国併合を事実上承認します。

 

こうして、明治から続いた両国の関係は一旦中断されます。

 

1991年8月、いわゆる「ソ連8月クーデター」の失敗を契機にソ連が崩壊、ソ連共産党が解体されます。

 

同年9月6日にソ連邦政府がエストニア、ラトビアなどバルト諸国の独立を承認すると、日本政府も即日エストニアを国家承認しました

 

10月10日には両国間で公式に外交関係が再開され、2年後にはタリンの旧市街に日本大使館が開設されます。

 

一方で東京でも1996年にエストニア大使館が開設され、今日に繋がる両国の経済、文化、技術の活発な交流の基礎となりました。

 

■縁とはわからないもの

エストニアにとって日本は極東の島国で、日本にとってエストニアは北欧の小国。

 

一見すると接点のないような二つの国でも、関係史を丹念に解いていけば知られざる繋がりのドラマが浮かび上がってきます。

 

エストニアと日本はつい近代までにお互いについて何も知らず、いざ出会うも時代の激動は両者に落ち着いた付き合いを許さなかった。

 

その間にエストニアは大国の蹂躙で占領と独立を繰り返し、日本はアメリカに原爆を落とされ敗戦国となったのです。

 

疾風怒濤に身を削られながら、細く長く続いてきた東西交流の営み、まさか自分がこれほど関わるとは思っていなかったです。

 

本当に縁とはどこに転がって、どう繋がるかは全く計れないもので、それがまた人生に一層の刺激と驚きを添えてくれるのだと振り返ってつくづく感じます。

 

今の時分、向こうではさぞ雪が綺麗に降り積もっているでしょう。

 

大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)の社長・禅院として再訪する機会が、今後も巡ってくるかはわかりませんが、こちらも縁に任せてゆこうと思います。

 

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