エストニアと日本の交流物語①

■エストニアの痺れる思い出

年明けからあっという間。

 

1月は行く、2月は逃げると、何か仕事をした実感も乏しいままにこのまま3月に突入を果たし、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)は春を迎えるのでしょう。

 

営業の追い込みと確定申告の準備をとりまとめながら、振り返る成功の失敗、人と思い出もたくさんあります。

 

寒冬の厳しさが一段と締まるこの頃だからなのかはわかりませんが、冬の冷え込みは以前、遥か北欧のエストニアへ飛んだ時のことを思い出させてくれます。

 
エストニア雪2

今でこそ「電子立国」だの「スタートアップ」だの、日本でも周回遅れでエストニアへ熱い視線が注がれております。

 

電子国民e-residencyの日本人登録者も2000人を超え、日本から毎年のように調査団が派遣され、先端を走るエストニアのデジタル戦略を学んでいます。

 

私はこうしたエストニアブームが湧き起こる少し前から、所縁を頂いてとあるエストニアプロジェクトに関わらせて頂いていました。

 

前後合わせてエストニアへ渡航したのは6回、手出しで都合数百万円投資しました。

 

多くの人を巻き込んだこのプロジェクト自体は、諸般の事情によって、苦い味を残しながら失敗に終わってしまったのですが、

 

お陰で普通に生きていたら一生出会う機会がなかったであろうエストニアの関係者、訪れる機会もなかったであろうエストニアという北欧の小国と、貴重な奇縁を頂けたのは、

 

決して事業失敗の負け惜しみでもなんでもなく、私にとってありがたい人生の収穫でした。

 

エストニアビジネスにどっぷり浸かっていた・・・

 

というより渦中にいた時のドラマは、ご存知の方はご存知で、

 

相当に痺れる内容であるためなかなかブログには書けませんので、興味ある方は実際に聞いて頂けたらと存じます。

 

十数年後、関係者の記憶が薄まった頃にノンフィクションの暴露本でも出そうかなと、画策しております。

 

できたら、コメディチックな漫画で出してみたいですね。

 

■海外ビジネスで大事な「関係史の理解」

エストニアビジネスに関わったきっかけで、エストニアという国についてよく知るようになりました。説明や商談、資料づくりで必要だったからです。

 

中国や韓国と違って、私を含む多くの日本人にとってエストニアはとても遠い国で、

 

社会の教科書で出てきた「バルト三国」のうちの一つ、というレベル以上の知識を持っていた人は、私の周りには殆どいませんでした。

 

基礎の理解がほぼゼロに近く、さらに情報源も限られていました。

 

そのため、エストニアとはどこにあって、どういう国で、どんな市場潜在力があるのかを、一から情報を集めて整理し、説明しなければなりませんでした。

 

エストニアはフロンティア、新しく開拓されるべき市場で、私は先導者の役割を引き受けていたのです。

 

未知の世界への冒険に人を駆り立てるには数倍ものエネルギーが必要でした。

 

その遊説の日々での気づきの一つに、ある未知の海外市場へ進出しようとする場合、

 

自分の国とその国の関わりの歴史を軸に抑えていけば相手国への理解が格段に進みやすくなり、組み立てるビジネスもイメージもしやすくなります。

 

なぜなら、ビジネスとは自国と相手国との間の「関係を創る」形の一つであります。

 

そのため、既に両国間で築かれた関係の歴史や交流の背景を知るのは、ビジネスという未来の架け橋を適切に構築するうえで大変貴重な発想の基盤となりうるからです。

 

自分以外の先人たちが、お互いにどういう形で出会い、歩み寄り、争いと誤解がどういう風に起こり、どう処理したのか。

 

彼我の関係史の成功と失敗を整理しておくだけでも、今の自分が立っている場所から、これから相手国と創っていくであろう関わりをより立体的にイメージさせてくれます。

 

■エストニアを最初に訪れた日本人とは?

エストニアと日本が国として関わる、つまり正式な国交を持つ前から人の交流がありました。

 

記録上で残っているエストニアを初めて訪れた日本人は、日露戦争時の海軍軍人であった広瀬武夫中佐です。

 
広瀬武夫

ロシア艦隊を海上封鎖する作戦時に旅順港で戦死し、後に「軍神」と神格化された、明治史において有名な人物です。

 

歴史に詳しい方はご存知なのかもしれません。

 

広瀬中佐は1900年8月に軍事視察としてエストニアを訪れ、レヴァル(今のタリン)港や近郊のパルディスキ港、レヴァル近辺の地区を訪問・視察、約1週間滞在しました。

 

一方初めて日本に触れたエストニア人は、ロシア艦隊の艦長として1800年代に世界一周の旅に出たヨハン・フォン・クルゼンシュテルン(Johann von Kruzenstern)です。

 

当時はまだエストニアという国が生まれていなかったので、厳密に言えば氏は「エストニア出身のバルト・ドイツ人」になるのですが、

 

艦船で東アジアや日本を巡り、民俗風習や日常生活品・美術品を収集したそうです。

 

日本とエストニアが国同士として関係を持つのは、エストニアが国家として帝政ロシアから独立を果たした第二次世界大戦以降まで待たなくてはなりません。

 

エストニアは1918年2月24日に独立を果たしますが、ロシア革命の勃発とドイツ軍の侵攻という脅威に挟まれた苦難の歴史でした。

 

なんせ独立宣言を発布した翌日にドイツ軍にタリンを攻め込まれ、第一次世界大戦が終結する1918年11月まで占領されてしまいます。

 

そして大戦終結後からわずか10日後に、今度はソビエト赤軍が侵攻、首都タリンを除くエストニアの大部分は占領されます。

 

エストニアは軍の再編・強化を行い、またイギリスやフィンランドからの支援もあって、1919年に赤軍を全国から撤退させることに成功。

 

が、同年の5月に今度は「バルト全域でのドイツ人統一国家の建設」を掲げるドイツ義勇軍が侵攻してきます。

 

激しい戦闘の末、6月23日にエストニアは勝利を収め、この日は現在も戦勝記念日として祝日とされています。

 
エストニア独立

できたばかりのよちよち歩きの国家にも関わらず、容赦なくシビアな環境にさらされていた。

 

それがエストニアの近代でした。

 

国としての基盤は非常に脆く不安定であったうえに、国際社会でも支援を受けるどころか認知すらされていなかったのです。

 

そのため、ドイツ軍による占領中から、エストニアの臨時政府関係者や独立活動家たちは諸外国に対して積極的な外交活動を展開していました。

 

エストニアの日本とのファーストコンタクトは、このような抜き差しならぬ背景の中でなされたのです。

 

■日本とエストニアの温度差

誕生したばかりのエストニアにとって、国際社会で独立国家として承認され、外交のチャンネルづくりが喫緊の課題でした。

 

自分たちのパートナーの一人として彼らが考えていたのが、新しく世界の表舞台に登場した新興列強である日本でした。

 

エストニア外交団はロンドンやパリの日本大使館を訪問し、独立承認を求めていました。

 

しかし、当時の日本の外交にとって、欧米列強との折衝が至上命題で、北欧の一小国との関係はどうしても優先度は低かったです。

 

そのため、正直構っていられなかった部分もあってか、エストニア臨時政府に対する態度は消極的でした。

 

それでも1919年には事実上の承認を与え、1921年に欧米列強と歩調を合わせる形で法律上の承認を行いました。

 

ここで両国の関係が正式にスタートしますが、1930年になっても両国の間で貿易が行われず、日本もエストニアも相手国に在外公館を設置することもなかったです。

 

■ところで国家の「承認」とは?

ここで国家の「承認」について説明しなければなりません。

 

国家の承認とは、近代においてある国家の政府が、新たに成立した他国を正式に主権のある国家として認める行為を指し、

 

主権の主体であると認められれば、認めてくれた国と国交を結び、大使館を置き、政治や経済の交流を持てるようになります。

 

物凄く簡単に言えば、付き合ってもよい仲間として認めて貰えるようになります。

 

国家の承認には大別して「事実上の承認」と「法律上の承認」の二つがあり、

 

前者は新しい国家の国際機構などへの加盟は認めるが、「この国を独立国家として認める」とはっきり表明しない承認の仕方で、

 

後者は「この国を独立国家として認める」旨を他の諸国に対しても広く宣告し、国際法上完全な独立主権国家として承認するというやり方です。

 

エストニア臨時政府に対しては、日本もほかの欧米列強も最初は事実上の承認しか与えませんでした。(つづく)

 

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