デザイナーたちの物語 イオ・ミン・ペイ
弊社、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)が行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。
そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、
そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。
とは言え、私はデザイナーの専門教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。
本物のデザイナーというのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものです。
■世界一有名な中国出身の建築家
今回ご紹介するデザイナーはイオ・ミン・ペイ(貝聿銘)。
中国出身のアメリカ人建築家であり、あのルーヴル美術館のガラスピラミッドを設計した人物として広く知られています。
ペイの生まれは1917年の広州、中国共産党による中華人民共和国が成立する以前の中華民国の時代です。
ペイ家は代々地主を務めてきた裕福な家柄で、父は後に中国銀行の頭取まで務めて出世しています。
しかしペイは父親に似ず、金融よりも音楽といった芸術に心を惹かれ、思いの赴くままに芸術の道を探求したそうです。
「私は自分自身を育ててきた」
と後に語っています。
若い時のペイにインスピレーションを与えた要素が2つあります。
一つは家族が保養地としていた蘇州の庭園。
14世紀に僧侶によって建てられ、ペイの叔父が所有していた庭園から特にペイは影響を受けました。
珍しい岩、石橋、滝が魅せる自然の造形と人間の技の融合の妙が、以後数十年にわたってペイの創作を支える原体験となったのです。
もう一つは東洋と西洋の両文化での生活体験です。
1918年、ペイが生まれて間もない頃、銀行員の父は孫文政権から資金援助の要請を断ったために身元に危険が及び、家族一家で当時イギリス領だった香港へ亡命します。
その後孫文政権に許され、家族は父の仕事の勤務地となった上海へと移り、フランス租界で欧米の文化に親しみながら暮らしました。
上海は「東洋のパリ」とも呼ばれた国際都市であり、外灘に建ち並ぶ西欧様式の建築はペイに大きな影響を与えました。
一方、ペイは祖父を通して中国の伝統文化にも親しみ、こうして東洋と西洋の二つの文化の間で多感な少年時代を過ごしたのです。
■モダニズムへの憧れ
建築を志したペイは1935年に渡米し、ペンシルバニア大学の建築学部に入学します。
しかしペンシルバニア大学の教授たちは、古代ギリシャやローマの古典的な伝統に根ざしたボザール様式で教えていたため、専ら近代建築に関心を持っていたペイは落胆します。
同時に他の学生の製図能力の高さに恐怖を感じ、挫折。建築の道を諦め、マサチューセッツ工科大学(MIT)の工学部に転学します。
しかしそこで彼のデザインの才能に気づいた建築学部の学部長は、建築の専攻に戻るようにペイを説得したのです。
学部長の言葉に押され、建築の勉強を再開したペイでしたが、結局MITのカリキュラムもボザール建築に重点が置かれていることに不満を感じ、
授業の合間はモダニズム建築界の新進気鋭の建築家、ル・コルビュジエの研究に没頭します。
簡素化されたフォルムとガラスやスチール素材を特徴とするコルビュジエの革新的なデザインにペイは大いに感銘を受けました。
コルビュジエが1935年にMITを訪問したこともペイに強い影響を与えたのでしょう。
1940年、マサチューセッツ工科大学を卒業。
ヨーロッパ留学に向け奨学金を取得したものの、当時のヨーロッパは第二次世界大戦の最中であったために留学を断念、ストーン・アンド・ウェブスター社に製図工の職を得て働き始めました。
その後ハーバード大学で建築学修士号を取得し、1948年、ニューヨークの不動産王、ウィリアム・ゼッケンドルフに採用され、彼の下でアメリカ各地の設計案件に携わります。
7年間勤務した後、1955年に「I.M.ペイ&アソシエイツ」を設立して独立。世界的な建築家への第一歩を歩み出すのでした。
独立してからペイはアメリカの大都市を中心に高層ビルや美術館などの大規模建築を多数手がけました。
20世紀後半のアメリカでは、歴史建築の装飾を参照引用するポストモダニズムや地域主義などのデザインがもてはやされていました。
それに対してペイは流行に流れされることなく、抽象的な幾何学形態と洗練されたディテールからなるモダニズムの美学を追求し続けました。
ペイは「芸術に関わるあらゆる賞を受賞した建築家」とも呼ばれ、文字通りあらゆる賞を総ナメにしています。
1983年に建築界のノーベル賞と称されるプリツカー賞を受賞した際に審査員から「イオ・ミン・ペイは、今世紀で最も美しい内外の空間造形を創り出した」と惜しみない賛辞を送られました。
ちなみにこの賞で貰った10万ドルの賞金でペイは奨学金を創設し、アメリカで建築を学ぶ中国人留学生の支援に当てたのです。
■難案件・世界一の美術館のリフォーム
ペイの代表作であり、建築史に残る建築家にたらしめた作品は、なんと言ってもルーヴル美術館のガラスピラミッドです。
ルーヴル美術館の中庭に設計された全面ガラスのピラミッド形エントランスは、モダニズムの抽象建築です。
美術館本体との調整や、シャンゼリゼ大通りまでの空間軸との関係性を考え抜き、
さらにピラミッドという古来の造形を援用することで歴史的建築との調和を実現したペイ建築の真骨頂であると言えます。
このガラスピラミッドが建設されるまでに実に多くの苦難がありました。
1981年にフランス大統領に就任したフランソワ・ミッテランは様々な建設計画を打ち出します。
その一つがルーヴル美術館の改修工事でした。
ミッテランは、アメリカのナショナル・ギャラリーをはじめとする欧米の美術館を視察した後、ペイのチームへ改修工事への参画を依頼します。
こうしてペイはルーヴル美術館を手がけた最初の外国人建築家となったのです。
ペイは中庭にはガラスと鋼鉄のピラミッドを、地下には別の逆ピラミッドをつけることで部屋に日光を反射させる設計を考案しました。
ミッテランはこの計画を気に入っていましたが、ルーヴル美術館の館長はじめ、評論家、地元メディア、一般市民はこの改修計画に猛反対します。
フランスの歴史そのものとも言える誇り高いルーヴル美術館に、場違いな近代建築が合うはずがない。これは歴史的な空間の破壊ではないかと、
轟々たる反対の声がフランス中から湧き起こったのです。
それももうですね。奈良の東大寺のど真ん中に近代建築を建てようとしたら日本人だって怒りますよね・・・。
ある評論家はこの設計を「巨大で破滅的な装置」と呼び、別の評論家は、ミッテランをパリに「残虐行為」を与えた「独裁者」と非難しました。
一部の声にはナショナリズムの意味合いも含まれ、「パリの中心部を中国人建築家にいじくり回されるのは何事か」といった非難もあったそうです。
「私はパリの通りで多くの怒りの視線を受けた」とペイも述べています。
まさに炎上。大炎上。
ペイと彼のチームにとって今までにない困難な案件だったと思われます。
しかし、ペイは元フランス大統領ジョルジュ・ポンピドゥーの未亡人クロード・ポンピドゥーをはじめとする文化界の有名人たちの支持を得て、
また当時のパリ市長だったジャック・シラクの提案を受け、ピラミッドの実物大模型を中庭に設置しました。
4日間の展示期間中およそ6万人がこの場所を訪れました。
批判の声は最後までなくなりませんでしたが、ピラミッドの規模を目の当たりにした後、多くのフランス国民は反対意見を和らげたと言われています。
1988年10月14日、ルーヴル美術館の新しい中庭が一般公開され、翌年3月にはピラミッドの入り口がオープンしました。
今や皆さんご存知の通り、ルーヴル美術館と言えばガラスピラミッドの風景がまず頭に思い浮かぶほど、ペイの快作はルーヴル美術館の顔となっており、年間960万人に上る来館者を迎えています。
改めてみると、この調和は本当に天才的なセンスと言わざるを得ません。
以上、大禅ビルからでした。