建築史シリーズ アール・ヌーヴォーとゼツェッション
弊社、大禅ビルが行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。
そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、
そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。
とは言え、私は専門的にデザイナーとしての教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。
本物のデザイナーというのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものだと思っています。
このシリーズではそうしたデザイナーたちが紡ぎ上げてきた建築の歴史を中心にご紹介していきます。
◯アール・ヌーヴォーの誕生
以前のコラムでもご紹介したイギリスを発祥とするアーツ・アンド・クラフツ運動。
この運動はイギリスと親密な関係にあったベルギーの芸術運動グループ・レヴァンにも多くのインスピレーションを与えました。
そして生まれた様式が、アール・ヌーヴォーです。
「アール・ヌーヴォー」とは、フランス語で「新しい芸術」という意味で、曲線や曲面で装飾された様式のことです。
自然の動きをした、しなやかな曲線をもつ植物の茎や葉、長い髪や女性の身体、鳥や昆虫といった生命感に溢れたモチーフを源泉とし、
さらに当時流行していた日本の版画・浮世絵からくる斬新な構図、美しく弧を描く線などからも大きな影響を受けたとされます。
ちなみにアール・ヌーヴォーは国によって呼び方も違います。
ドイツでは「ユーゲントシュティール」、イタリアでは「スティーレリバティー」、スペインでは「モデルニスモ」と呼ばれています・
◯世界初のアール·ヌーヴォー建築
それまでのオーソドックスな古典主義を一気に覆した作品がブリュッセルに誕生します。
ヴィクトール・オルタによるタッセル邸です。
壁や天井のやわらかなつる草模様の曲線は、床の曲線と合わせていまにも動き出しそうな空間を演出しています。
タッセル邸の階段室では、トップライトからの光に溢れるこの階段室は建物を前後に分け、社交空間と日常空間のつなぎの間としても機能しています。
さらに空間同士を流動的に連続させる場になっている点も見逃せません。
階段のメタルワークの手摺も幻想的な空間の演出に一役買っており、装飾と構造が一体となった柱と、芽や葉をかたどったデザインはアール・ヌーヴォーの真骨頂と言えます。
アール・ヌーヴォーは自然をモデルにすることで、過去の様式からの自由になろうとしたことが最大の特徴です。
それはうまくいきましたが、文化的象徴性に乏しかったゆえに社会との関係が希薄で、一時の流行に終わってしまい、徐々につくられなくなっていきます。
また、曲線や曲面でデザインするのは、簡単ではありませんでした。
ヴィクトール・オルタが最初に建築に取り込んだこの芸術は、設計者によっては表面的なファッションにとどまってしまうケースも少なくなく、
そんな流れを見ていたからか、オルタは自邸を建てた後、アール・ヌーヴォーに嫌悪感を抱き、結果、古典主義に戻ってしまうのです。
アール・ヌーヴォーは伝統から離れた点で、アーツアンド・クラフツと異なります。
しかし、入念な手仕事によって、優雅で豊かな総合芸術をめざした点では共通しています。
そして、短い間とはいえ、アール・ヌーヴォーは輝き、数多くの作品が生まれたのです。
◯天才・ガウディ
そのアール。ヌーヴォーが例外的に長く息づいた都市が、スペインのカタルーニャ(今のバルセロナ)です。
カタルーニャは世界一のモデルニスモ(アール・ヌーヴグォー)密集地帯です。
1898年、米西戦争の敗北で虎の子の植民地を失い、崩壊したスペイン植民地帝国。
衰退する中、鉄と繊維を機軸に貿易の拠点となり、わずか半世紀で近代化し、目覚ましい発展を遂げていきます。
それまで長きにわたりスペインに支配され、カタルーニャ語の禁止など抑圧を受けていました。
その反動で民族文化の復興(レナシェンサ)をめざし、新しいカタルーニャの建築様式を求めたのです。
そして流行していたアール・ヌーヴォーの独自性が徐々に強まっていくことになり、多彩で魅力的な建築が数多く生まれました。
そこで登場したのが、パトロンでブルジョワジーのグエル家やバトリヨ家に支えられた天才建築家、アントニオ。ガウディです。
最大の代表作であるサグラダ・ファミリア大聖堂は、今もなお建設中の教会です。
そしてカサ・バトリョ。
1階の曲線からなる柱は、2階の骨のような方立(左右につながった窓を垂直方向に仕切る枠)を介して、ゆるやかに波打つ多彩色の外壁に沿って上昇し、甲殻類の皮膚のような屋根によって縁取られています。
生命の鼓動を感じさせる、新しい表現形態のファサードを生み出しました。
内部の吹抜け・階段・エレベーターからなる動線部は、下から見上げると、光輝く水面のような空間が広がります。
色とりどりのタイルに乱反射した光は、さまざまな大きさと形状の開口へと導かれ、人の動きに合わせて空間が変容していきます。
モデルニスモはアール・ヌーヴォーと同じように曲線の多用と鮮やかな装飾性が特徴ですが、
スペインが世界第一次大戦に参入しなかったこともあり、他国のアール・ヌーヴォーより大きな変化がカサ・バトリョ外観現れました。
この時期のカタルーニャの建築家たちは、ロマネスクやゴシックなど特定の一つの様式をベースにデザインすることはなく、自由に織り交ぜながら発展させていきました。
そのため、モデルニスモは作品ごとに豊かな個性を獲得し、自由奔放でした。
◯分離を目指す「ゼツェッション運動」とは?
中世をひとつの理想としたアーツ・アンド・クラフツを継承したのがアール・ヌーヴォーですが、
そこから分離しようとしたのがゼツェッションと呼ばれる、新しい時代にふさわしい芸術の創造を目的とした近代運動でした。
1897年、ウィーンでその近代運動を展開するグループ、ウィーン分離派(初代会長は芸術家のグスタフ・クリムト)が生まれました。
中心人物のひとりがオットー・ヴァーグナーです。
ヴァーグナーは「必要様式」を唱え、建築は目的の充足、適切な材料、経済的な構造で自然に成立する形態を採用すべきと説きました。
ゼツェッションの特徴のひとつとしては、これまで建築と一体となっていた装飾・彫刻は排除され、壁面を真っ平のキャンパスと促えた上で表現されている点でした。
◯ウィーン郵便貯金局
近代主義への移行を端的に示す名作がオットー・ヴァーグナーの「ウィーン郵便貯金局」です。
ホール内部は飾を捨て去った細い鉄骨の支柱と白い壁が一定の間隔で並べられ、ガラスのヴォールト天井に包み込まれています。
柱の下部にはアルミの被覆があり、一定の高さで視線をコントロール。
被覆ラインより下はドアや受付、家具、人の流れといった「動」の空間。
上部は「静」を強調し、均質な空間を生み出しています。
また、ウィーン郵便貯金局は、産業革命以降の技術と素材による可能性を追求することで、モダニズム建築への道を拓いた存在でもありました。
以上、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)からでした。