アントニオ・ガウディ

弊社、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)が行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。

 

そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、

 

そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。

 

こちらはお陰さまで大好評です。

 

とは言え、私は専門的にデザイナーとしての教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。

 

本物のデザイナーというのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものです。

 

今回もそんな天才デザイナーの一人をご紹介します。

 

■スペインが生んだ建築界の偉人

スペインの建築家、アントニオ・ガウディ。

 
ガウディ2
 

19世紀から20世紀にかけてバルセロナを中心に活動した、偉人と言われる彫刻家の一人です。

 

彼の代名詞とも言える「サグラダ・ファミリア(聖家族教会)」。

 

ガウディが生涯を傾けたこの未完の大作は、1882年の着工開始から130年以上にわたり、今なおつくり続けられているとんでもない建築です。

 
サグラダ・ファミリア13
 

このほか彼が手掛けた建築作品はバルセロナ市内に点在しており、その一部は「アントニ・ガウディ作品群」としてユネスコ世界遺産にも登録されています。

 

誇るべき人類の遺産を創造してきたガウディは、1852年に銅細工師の子どもとして生まれました。

 

先祖は鷹狩りだったと伝えられています。

 

ガウディは小さい頃から自然が好きな少年だったようで、屋内よりも屋外で遊ぶことが多かったようです。

 

それが高じて27歳の時にカタルーニャと南フランスの探検プログラムにも参加し、乗馬や一日に10キロの走破を体験するなど、根っからのアウトドア派でした。

 

「自由自在な大自然の姿」の原体験がインスピレーションとして、後の彼の作品に豊かに反映されていった言うまでもありません。

 

■駆け出しの才能

ガウディは若くして絵の才能もあったようですが、本格的に芸術の道に入るまで紆余曲折がありました。

 

織物工場での見習い、修道院での教職、さらに兵役も経験します。

 

持病のリウマチ持病が災いし健康状態がよくなかったので、幸か不幸か戦争へ駆り出されずに済み、その分の時間を勉学に当てることができたのです。

 

1876年、ガウディは母親と弟を相次いで亡くします。この間、建築学校を卒業。

 

学費を稼ぐために色んな建築家のもとで製図技師として働いた苦学生でした。

 

建築に加えて、フランス語、歴史、経済学、哲学、美学も学んでいました。成績はお世辞にも良い方ではなかったと言います。

 

まあ、それはあくまでも学校の評価基準の中だけの話なのではないかと思いますが。

 
カサ・ビセンス
 

さて、ガウディが建築家として携わった設計案件「カサ・ビセンス」をきっかけに、彼の名が広く知られるようになり、仕事が舞い込んでくるようになりました。

 

1878年のパリ万国博覧会でガウディは、手袋メーカーのために制作したショーケースを展示。

 

その機能的な美にカタルーニャの実業家、エウセビ・グエルは感銘を受け、ガウディにいくつもの作品を発注しました。

 

それらの中からガウディの代表作となったグエルのワインセラー、グエルのパビリオン、パラウ・グエル(グエルの宮殿)、グエル公園(グエル公園)、コロニア・グエル教会の地下室が誕生します。

 

また、ガウディはグエル伯爵の義理の父であるコミーリャス侯爵の友人となり、コミーリャスために「エル・カプリチョ」を設計しました。

 
グエル公園
 

■サグラダ・ファミリアとの出会い

1883年、ガウディはバルセロナの教会建設プロジェクト「Basílica i Temple Expiatori de la Sagrada Família(バシリカと聖家族の教会、つまりサグラダファミリア)」の責任者に任命されます。

 
サグラダ・ファミリア12
 

と言っても、実はガウディは2代目の担当。

 

初代建築家フランシスコ・ビリャールは設計を引き受けたものの、意見の対立から翌年に辞任。その後を引き継いだのがまだ無名のガウディだったのです。

 

わずか31歳の抜擢。私とあまり変わらい年齢にただただ驚くしかありません。

 

彼は「聖堂全体で聖書の内容を表現する」とし、教会の設計を一から練り直し、以降1926年に亡くなるまでその生涯を「サグラダ ファミリア」の建設に捧げたのでした。

 

サグラダ・ファミリアの建設に携わりながら、ガウディは後世に残る数多の作品に取り組み、それらは否応なく建築家としての彼の名声を高める結果となりました。

 

作品群の中で恐らく最も有名なのは1904年から1910年にかけて建設したカサ・バトリョ(バトリョの家)とカサ・ミラ(ミラの家)でしょう。

 
カサ・ミラ2
 

波が打ち、渦が巻く水を思わせる自然美の造形に、建物が人工物であることを忘れさせてくれます。

 

■工期300年から大幅短縮!

サグラダ・ファミリアは、現在もガウディが残した資料を基に建設が続いているのはご存知の通りですが、

 

当初は信者からの喜捨で財源を賄うため、ガウディたちは資金繰りに奔走し、そのため工事が遅々として進まなかったそうです。

 
サグラダ・ファミリア12
 

さらに経済危機やガウディの親族、後援者の死、ガウディ死後に勃発したスペイン内戦や第二次世界大戦によって、

 

建物が損傷したり、ガウディ直筆の図面が消失したり、模型が破壊されたりと、度重なる不運に見舞われます。

 

それでもガウディの遺志を受け継ぐ形で、数多の建築家、彫刻家、支援者の手によって完成を目指して今なお工事が続けられています。

 

スペインの経済成長、90年代以降の拝観料収入の好転、さらに21世紀に入ってから導入された3D構造解析と3Dプリンター、

 

CNC加工機などの最新技術。それらのおかげで大幅な工期の短縮が見込めるようになり、想定された約300年という建築期間は半減し、

 

約144年の工期を以って2026年でサグラダ・ファミリアは完成を迎える予定です。

 
サグラダ・ファミリア12
 

■浮浪者と間違えられるガウディ

若い頃のガウディはオシャレ好きな好青年で、高価なスーツに身を包み、身だしなみの整った髪と髭を生やし、美食を楽しみ、

 

劇場やオペラを頻繁に鑑賞し、馬車に乗って現場を訪れていましたが、晩年のガウディは、質素な食事で過ごし、一見ボロ布と見紛うようなスーツを着ていました。

 

人生の最晩年ではほかの仕事は一切断り、妻を持たず、財産を持たず、サグラダ・ファミリアの建設だけに精魂を注ぎ込んだのです。

 

1926年6月7日、ガウディは礼拝のために教会に向かって歩いていた時、眼鏡を忘れたため段差に躓き転倒し、そのまま路面電車にはねられ意識を失います。

 

あまりにみすぼらしい身なりだったために物乞いに間違えられ、ガウディは意識を失ったまますぐには救助を受けられず、数日後に死亡してしまう。

 

その遺体は彼の人生そのものとも言えるサグラダ・ファミリアの地下に埋葬されたのです。

 
サグラダ・ファミリア12
 

サグラダ・ファミリア完成予定の2026年は、くしくもガウディ没後100年の節目に当たる記念すべき年です。

 

天才が生んだ人類最高峰の建築に、いつか私もお目にかかりたいものです。

 

以上、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)からでした。

 
サグラダ・ファミリア12
 

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