おもしろい!貨幣の歴史
■貨幣の最初の役割は「交換機能」
昔の時代は、長い間にわたってモノとモノを交換し合う「物々交換」の経済で成り立っていました。
海の民は海産物を、農耕の民は穀物を、山の民は薬草や獣を交換する、といった具合に、それぞれの余った財を欲しい別の財と交換していました。
しかし経済が発展するにつれ、そうしたモノ同士の交換では不便が生じるようになります。
交換したい人、交換したいモノの種類が増えたからです。
需要と供給のマッチングにコストがかかる状態になったのです。
たとえば米を持って、米をあげる代わりに魚が欲しい人が仮にいた場合、
交換が成立するには、魚を持ち、魚をあげる代わりに米が欲しい人がいなければなりません。
これでも現代人の私からすれば交換相手を探す時点で大変そうですが、
経済が発展していくと、魚は持っているけれども、米ではなく薬草や穀物が欲しいという人も出てくるでしょう。
人の欲求が多様化、複雑化したため、このままでは交換が成り立たなくなってしまう。
そうした状況の中で登場したのが、価値を交換するための道具
「貨幣」
です。
貨幣という「価値があり、価値の見える化がしやすい非商品」を媒介にして、すべてのモノの価値を数字に換算する。
物々交換で取引される価値を、一旦「価格」という誰でも理解しやすい共通言語に直すわけです。
そしてモノを売る際は貨幣と交換し、得た貨幣で別のほしいモノを買えばよいのです。
人類社会は経済の発展とともに、交換機能を持った媒介物を必要とするようになり、そこから貨幣を持つようになったのではないかと言われています。
■貨幣発行は国家のビジネス?
貨幣登場の理由は、以上に述べたもののほかにいくつも説が出されています。
そのうちの一つが
「貨幣を発行した国がそれによって利益を得られるから」
です。
貨幣をつくることができたのは、ある程度の領土や領民といった富を保有し、社会の安定を支える法制度や官僚組織が整備された国です。
そうした国では貨幣を鋳造する際、その材料の原価よりも高い金額を貨幣に設定しました。
そして国として貨幣の金銀含有量を保証し、信用力によって流通させることができたのです。
貨幣の流通量が多くなれば、それだけ国は多くの利益を上げることが可能となります。
時代が下るにつれ、国による貨幣の発行・流通を通じた国家基盤の強化は、多くの国々で少しずつ取り入れられるようになっていきました。
■中国は東アジアの中央銀行
貨幣取引の登場によって価値の生産・移動の総量がアップし、経済学で言う所のGDPが上がっていくわけです。
過去数千年にわたり世界のGDPの大半を占めていたのは間違いなく中国大陸でした。
たとえば紀元前2世紀から紀元前1世紀にかけて、前漢の武帝によってつくられた五銖銭という貨幣は、約120年の間に280億枚 つくられたとされています。
これは1年間に2億数千万枚がつくられた計算です。今の日本での100円硬貨の年間生産枚数に匹敵します。
貨幣の流通量はすなわち経済規模ですから、当時の漢は世界中どの地域よりも広大な経済圏を有していたのです。
さらに時代が下り、漢以上の大量の貨幣を鋳造したのが「北宋」です。
北宋の150年間で銅銭、鉄銭合わせて2000億枚から3000億枚がつくられました。
また宋銭の輸出も行われました。
当時、北宋国内では銅がだぶつき、銅の輸出を開始していましたが、
銅をそのまま輸出するより、貨幣として輸出したほうが高く売れたわけです。
このために鋳造所を増設したほどです。
宋銭は日本、ベトナム、朝鮮などに大量に輸出され、貿易に使われる「国際通貨」としてだけでなく、周辺国の「日常通貨」にもなりました。
北宋は東アジアの中央銀行だったとも言えますね。
■日本で貨幣が流行らなかったわけ
日本では平清盛が宋銭を輸入し日本で流通させ、自らが中央銀行のような役割を果たします。
常人離れしたこの大胆な発想で宋銭が大量に流通するようになり、日本でようやく貨幣経済が根付いたのです。
実は日本での貨幣の普及がとても遅く、平安末期までは富本銭や和同開弥といった貨幣がつくられましたが、流通するまでには至りませんでした。
理由は
「朝廷の貨幣政策の失敗」
です。
現在の私たちも何の疑いもなく貨幣が使える環境にいるため実感しにくいですが、
貨幣はそもそも、一定の条件が備わってないと流通しないものです。
貨幣が流通する最低条件は、まず
「人々が貨幣の価値を認める」
こと。
至極当然な話のように思えますが、貨幣に安定した価値があると認識するからこそ、売買の代金として通貨を受け取れるわけです、
もし、売買の片方でも貨幣の価値を認めないのであれば、貨幣のやりとりは発生せず、価値と交換ができません。
例えば偽札だと、それに価値を認めないので貨幣は受け取ろうとしませんよね。
本当に商取引に使えるメリットが実感できないと、なかなか貨幣の使用は広がりません。
古代の日本の人々は貨幣を手にするのは殆ど初めてなので、価値を認めるも何も、貨幣の概念すらあまり理解できなかったのかもしれません。
最初に貨幣を受け取っても、これで本当にモノが買えるのか?と、半信半疑だったはずです。
朝廷は和同開弥を世間に定着させようと貨幣の価格の統一、偽造防止の罰則、より多く貨幣を集めた人には官位を授けるなど、
貨幣の流通量と価値アップのために心を砕きました。
その甲斐あって徐々に貨幣が根付くようになります。が、貨幣の材料となる銅が不足していったため、
朝廷は新しく鋳造する貨幣の一枚あたりの設定価値を一気に10倍も上げたのです。
これにはせっかく定着しかけた貨幣経済も大混乱に陥ってしまいます。
似たような銅銭なのに、新しいというだけで価値が10倍も開きがある。
本当に大丈夫のか?
と、疑念が生まれたのも無理からぬこと。
結局、奈良時代から平安時代にかけて朝廷は12種類の貨幣を発行したものの、無理な価値設定のために流通せず「銭離れ」が起きるようになります。
最終的には鋳造が中止され、日本は米、布を通貨に用いる「米・布経済」に逆戻りしてしまいます。
貨幣の流通は宋銭の輸入まで待たなくてはなりませんでした。
■為替手形の誕生は1400年前
今でも取引で使う「為替手形」。
実は世界最初の為替銀行ができたのは7世紀の唐でした。
唐の時代に登場した「飛銭」と呼ばれるものです。
唐では平安な世が続いたため、商業が発達し、遠隔地での取引も活発になりました。
当時は銅銭が主な通貨でしたが、運搬に大変労力がかかっていましたため、為替業務を行う民間業者が出てきたのです。
長安、洛陽などの大都市の商人が地方から商品を買いつける場合、まず為替業者に銅銭を預けて、預かり証を発行してもらいます。
この預かり証を、地方から送られてきた商品の代金として地方の商人に送る。
地方の商人は自分の街で為替業者に預かり証を持っていけば、銅銭を払ってもらえるという仕組みです。もちろん為替業者同士は提携関係にあります。
びっくりですよね。今日の為替銀行とほぼ同様の仕組みが、1400年前に既に確立していたのです。
この「飛銭」というシステムは、はじめは民間業者が行っていましたが、やがて官営となります。
つまり国営の為替銀行となったのです。
まさに唐は古代のウォール街、金融の最先端ですね。
■世界初の紙幣は中国の四川で誕生
実は世界初の紙幣も中国で生まれています。
北宋時代に「交子」と呼ばれるものです。
当時、中国の四川地域では商業が発展していました。
パンダや麻婆豆腐、三国志の蜀の国で有名なところですね。
そこでは「鉄銭」が主に使われていましたが、鉄銭は重く、高額取引に不便でした。
そのうち鉄銭を預かって為替手形を発行する商業者組合が現れます。
その預かり証は「交子」と呼ばれ、「交子舗」に持っていけばいつでも鉄銭を受け取ることができます。
「交子」は鉄銭と同じ価値を持つため、組合の信用力が及ぶ範囲で通貨の代わりとして流通するようになりました。
当時の四川では 印刷技術も発達していたため、このようなことが可能だったわけですが、
やがて北宋の政府は、偽造対策のためもあって組合による交子の発行を禁じ、発行権を独占。「官交子」という公的な期限付き交子を発行するようになります。
これが世界で最初の公定紙幣の誕生です。
貨幣の価値は、最初は金や銀といった原材料そのものの希少性が担保していましたが、
紙幣のように、貨幣の価値の維持に権力者や国家の信用力が益々重要な要素を占めてくるんですね。
そして近代になって、貨幣の価値が金保有量に紐付けられた金本位制度から、金と切り離された管理通貨制度へと変遷をたどっていきます。
さて、季節もそろそろ今年も師走に突入。
何かとお金のソロバンを弾くことが多くなるシーズンですので、お金の歴史を振り返ってみた大禅不動産研究室(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)でした。