えびす様と銀行と
■えびす銀行を救え!
十日恵比須の続きを。
ところで、えびす様の貸し出すえびす銭の儲けを、翌年にえびす銭とともに貸主のえびす様に返すというしきたり。
これって銀行から借りた元本に、利息を添えて返納する今日の銀行の仕組みと似ていますよね。
実際にえびす様にお返しするのは種銭(と感謝の気持ち)だけですし、そもそも最近では芳しくない種銭の返納率が災いして、えびす銭システムが消滅の危機に瀕しているとも聞きます。
というのも、えびす銭は流通しない「本物の古銭」を使っているので量に限りがあります。
また返納するにしても、参拝客からは返し貰うのは元本のえびす銭だけで、古銭を上乗せして返して貰うわけではありません。
預金も元本も金利も確保できる銀行のようにはいきません。
福岡は人も増えていますし、えびす銭の貸し出し量も増えていっているのでしょう。
一方では返納率の低さ。
よそから古銭を調達しない限り手元のえびす銭を維持するのは難しいそうです。
えびす銭は返納するものだと知らない方も多いのではないでしょうか。
知っていても、持ってくるのを忘れたり、まいっかと財布の中でそのままだったり、そうした方は案外多い気がします。
えびす銭の危機と返納を根気強く訴えていきつつ、例えば
「古銭のクラウドファンディング」
といった風に、えびす銭が手元にある方や古銭の収集家に寄付を呼びかけるのもありなのかなと考えています。
「えびす様のクラウドファンディング?しかも古銭限定??」
という話題性で拡散もされやすそうですし、納める量が多いほど御利益あるよ!
といった喜ばしいメッセージも添えればなお効果的でしょう。
それでも足りない時はいっそ神社で造幣して貰うのもいいかもしれませんね。
神社の修繕で使われなくなった古い材木や資材などで古銭を模した銭を作れば、有り難みも製造コストも両立できて一石二鳥かと思います。
今ではDIY向けのレーザー加工機もありますので、「えびす造幣局」をやろうと思えば実現できなくはないな・・・
と素人ながらに妄想します。
私なら満面の笑みのえびす様が彫られた銭を希望したいところですね。
とは言えは、前回のコラムにも書きましたが、えびす様のデフォルト危機を招来したのでは、
元を正せばえびす様から銭を借りたのに返さない我々の責任にほかなりません。
いくら心の広いえびす様でも、借りた金を返すという基本すら守れない商売人には御利益なんて授けないでしょう。
しかも神様からの借金を踏み倒すとか、バチが当たりそうです。
しきたりを絶やさぬためにも、商売繁盛の御利益に与るためにも、人様の金だろうが神様の金だろうが滞納せずに、返すべきお金はちゃんと返したいものですね。
■銀行は最強の業種
えびす様にお参りさせて頂くのは年に一度だけですが、銀行には月末の度に回らせて頂いております。
運気を頂いているのがえびす様だとすれば、生計の支えを頂いているのが銀行です。
大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)も創業時からお世話になっておりますし、私個人も大学時にアルバイトし始めた時からお世話になっています。
公私にわたり伴走頂いている良きパートナーであり、欠かすことのできない社会のインフラです。
思うに、銀行はあらゆる業種の中でも「最強」の業種なのではないでしょうか。
なぜなら、大禅ビルのようにモノやサービスの販売行為を経ずして「現金」を手に入れられるからです。
これはですね、凄いことなのですよ。
ご存知の通り銀行は利用者の「預金」によってお金の仕入れを行い、在庫を形成しています。
預金は私たちにとって日常行為なんですね。
例えばたまたま大禅ビルの前を散歩で通った人が「よし、一部屋借りてみるか!」にはならないでしょう。
一方銀行はとても身近な存在ですから、今すぐには使わない、用途が定まっていない現金をいつでも気軽に預けられる場所です。
無料かつ安全に保管してくれる銀行という金庫に、私たちはお金をどんどん預けていきます。
片や銀行にとっては、左団扇とまでは行かないにしても、大禅ビルのように汗だくになりながら営業活動しなくたって、現金が勝手に手元で膨らんでいくのです。
う、羨ましい・・・。
銀行が最強の業態と言われる所以はここにあります。
■「信用創造」という錬金術
「預金」という形で資金を手に入れられる銀行は、まさに最強の業態なのですが、銀行の本質はそこではなく「信用創造」にあります。
銀行は多くのお客様から預金を預かり、一部を「法定準備金」として日銀に預け、残りを企業への融資に充てて運用しています。
例えば私がA銀行に10円預金したとします。
A銀行はこのうち10%に当たる1円を法定準備金として日銀の当座預金口座に預け、残りの9円を有限会社大禅に融資します。
大禅はそのお金で内装業者Bへの支払いを行いました。
一方、内装業者Bは支払って貰った9円を、すぐに使う予定がないので再びA銀行に預けます。
ここでA銀行では新たに内装業者Bの預金「9円」が作られました。
A銀行は9円の90%に当たる8円を、更に筑紫不動産に融資。
筑紫不動産はそのお金を不動産会社Cに支払い、不動産会社Cは更にその8円をA銀行に預ける・・・。
この預金が形成されるプロセスを単純な数式に表すと「10円+9円+8円・・・」となり、最終的に合計は「100円」となります。
最初の預金額が10円だったので、90円の預金が新しく作られたことになります。
と言っても、実際は貸し出しによってお金は銀行から出ていっているのですが、他にも多くの預金を保有いますし、借入金と金利の回収が無事に回っていれば、
「お金を大量保有している」
という事実は銀行への信用の基盤となります。
その信用に担保される形で創出された帳簿上の預金の存在を「預金通貨」と言います。
銀行が自身への信用を元に市場へ供給できる貨幣の量でもあります。
銀行は支払準備金を手元に残し、残りを再び融資に回します。
預金者から現金で預けられる一次資金は「本源的預金」と呼ばれ、これを元に創造された二次資金を「派生的預金」と呼ばれます。
貸出と預金の繰り返しによって、銀行は最初に受け入れた預金額の何倍もの預金通貨を作り出す。
このプロセスこそが「信用創造」です。
「信用」で手持ちのお金以上のお金を、帳簿上で「創造」し、その存在を「想像」させるわけです。
ほぼ無限に資金を増やしていける銀行は、やはり特殊な産業に違いありません。
■お金という宗教
歴史上の「恐慌」は、銀行の信用創造機能が麻痺か急低下した時に起こります。
預金者たちは自分のたちの預金が引き出せないのを恐れ、預金の引き出しに殺到する取り付け騒ぎが起こります。
そうして、銀行は支払停止・大量倒産となり、お金の流れが滞ってしまい、金融全般に激しい混乱を生じさせます。
お金は経済の血液。銀行はその流れを太く速く、そして安定させる役割を担っています。
お金の価値を担保するは、お金とそれを扱う銀行への信用です。
でなければお金も単なるよくできた色のついた紙切れに過ぎません。
仮に大禅ビルがお金を刷ったってお金として使えないでしょう。
その紙切れで物を買ったり売ったりできる相互の合意と信用があって始めて、紙切れがお金に変わるのです。
そうして考えるとお金というのは、人間の想像の産物ですね。
物の上に、目には見えない仕組みが想像され、共有され、信じられています。
物理的に証明できない、目にも見えない。
なのにこぞって拝まれるえびす様のように、お金への信用は宗教への信仰とも似ています。
あるいはお金こそ一つの宗教なのかもしれませんね。