デザイナーたちの物語 菊竹清訓

弊社、大禅ビルが行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。

 

そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、

 

そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。

 

とは言え、私は専門的にデザイナーとしての教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。

 

本物のデザイナーというのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものだと思っています。

 

■代謝する都市と建築を目指した建築家

本日ご紹介するのは菊竹清訓。

 
菊竹清訓
 

福岡の久留米市出身あり、第2次世界大戦を挟んで建築教育を受けた戦後第一世代の日本の建築家です。

 

久留米駅庁舎はじめ、九州国立博物館、そして福岡民なら誰もが目にしたことのある福岡市庁舎行政棟も彼が手掛けた作品です

 
九州国立博物館
 
福岡市役所
 

菊竹を語る上で挙げなければならないのは「メタボリズム」という建築運動です。

 

これは菊竹を含む日本の若手建築家・都市計画家グループが始めたもので、新陳代謝(=メタボリズム)から名前をとり

 

「都市や建築は社会の変化や人口の成長に合わせて有機的に成長すべき」

 

を理念としています。

 
菊竹清訓2
 

従来の固定した形態や機能を支える「機械の原理」はもはや有効的でないと考え、空間や機能が変化する「生命の原理」が将来の社会や文化を支えるとし、
 

無数の生活用ユニットが高い塔や海上シリンダーなどの巨大構造物に差し込まれるデザインに表現されるように、古い細胞が新しい細胞に入れ替わり、

 

古くなったり機能が合わなくなったりした設備、空間だけを都度取り替えることで、社会の成長や変化に合わせて建物自体を生き物のように有機的に変えていく構想です。

 

「日本に相応しい環境に対する考え方で、再利用できるストックが増え、繰り返し使われることで質が高まっていく」

 

という持続可能性の重視を菊竹は唱えました。

 

この背景には、高度経済成長という当時の日本の人口増加の圧力と都市の急速な変化、膨張がありました。

 
高度経済成長2
 

■メタボリズムは日本発の建築運動

メタボリズム・グループの起源は1950年代の終わり頃です。

 

モダニズム建築を主導してきたCIAM(Congrès International d’Architecture Moderne・シアム・近代建築国際会議)が1956年を最後に開かれなくなり、

 

CIAMの若手メンバーらによる新しいグループ・Team Xが台頭、日本の若手建築家も含め、世界の若い建築家らに影響を与えました。

 

1960年に、日本で世界デザイン会議 (World Design Conference) が開かれましたが、

 

この会議のプランニングに関わった菊竹はじめとする建築家が「来るべき社会の姿を、具体的に提案するグループ」を結成します。

 
菊竹清訓2
 

世界デザイン会議で彼らは最初の宣言である『METABOLISM/1960 – 都市への提案』を発表し、

 

「海上都市」「塔状都市」「新宿ターミナル再開発計画」など、新陳代謝する巨大都市のアイデアを披露しました。

 

「建築や都市は閉じた機械であってはならず、新陳代謝を通じて成長する有機体であらねばならない」

 

という運動の理念が具体的に展開され、彼らのアイデアは、将来の社会への具体的な提案だけに留まらず、哲学など広く近代文明にも言及するものでした。

 

多くの計画案が実現されないまま活動が終息していきましたが、東南アジア諸国にもその影響が及ぶなど、日本の国際的な建築運動として、近年では再評価の機運も出てきています。

 

■狂気を秘めた建築家

メタボリズムの担い手として活躍した菊竹の略歴を概覧してみましょう。

 

福岡県久留米市で生まれ、大学は早稲田大学専門部工科建築学科に入学します。

 

在学中からセンスを発揮し、久留米駅舎コンペで1等、広島平和記念カトリック聖堂コンペで3等を獲得しています。

 
久留米駅
 

卒業後は竹中工務店に就職。村野・森建築設計事務所を経て、1953年に自身の建築設計事務所を創業します。

 

また、早稲田大学理工学部講師、千葉工業大学教授、早稲田大学理工学総合研究センター客員教授を歴任し、

 

2000年にユーゴスラヴィア・ビエンナーレにて「今世紀を創った世界建築家100人」に選ばれています。

 

日本国内で開催された国際博覧会にも足跡を残しており、

 

1970年の大阪万博、1975年の沖縄海洋博、1985年のつくば科学万博、2005年の愛知万博で建物、会場の設計、プロデュースなどに関わっています。

 

菊竹の弟子である伊東豊雄は、菊竹を

 

「恐らくこのような狂気を秘めた建築家が今後あらわれることはないだろう」

 

と高く評価しています。

 

伊東の回想によれば菊竹の創造の過程は

 

「湧き上がるアイデアを描いては壊し、描いては壊し・・・無限に続くかと思われる作業をくり返しながら、身体のなかからえぐり取られるようにして、建築は生み出されることを知りました」

 

のように、壮絶を極めていたという。

 

■前衛的な代表作「江戸東京博物館」「スカイハウス」

菊竹の代表的な作品をご紹介します。

 

江戸東京博物館


 
江戸東京博物館
 

墨田区にある博物館です。

 

江戸・東京の歴史・文化に関わる資料を収集、保存、展示することを目的に、「江戸と東京の歴史や文化を伝える博物館」として1993年に開館しました。

 

地上7階、地下1階の鉄骨造構造。地上部分の高さは約62mで、江戸城の天守閣とほぼ同じだそうです。

 

その風貌は一見して4本脚でのそりと這う巨大な獣のようです。

 

建物は上部と下部に分かれており、上部には常設展示室、収蔵庫、図書室、和風レストラン、下部には企画展示室、ホール、ミュージアムショップ、洋風レストランとなっています。

 

高床式構造であるため足元はスカッと抜けており「江戸東京ひろば」と名付けられた屋外空間となっています。

 

なぜ上空に建物を持ち上げたのか?

 

理由の一つに史料や展示物を水害から守ることだったのではないかと言われています。

 

菊竹は幼少期に久留米で水害を何度も体験しており、その原体験が設計にも反映されているという。

 

江戸東京博物館に加え、石橋文化センター美術館や島根県立博物館などほかの菊竹作品でも展示室を上階に持ち上げる手法が採用されています。

 

催し物の広場としての機能を持たせる目的もありましたがが、緊急時にこの地域の避難場所として使われることも想定されたのかもしれません。

 

スカイハウス


 
スカイハウス
 

菊竹が手ずから設計した自宅であり、建築界デビュー作となった作品です。

 

時は東京オリンピックを控え高度成長期の真っただ。新たな家族のあり方を提案する平面計画が多数登場する中、菊竹のスカイハウスは「究極の核家族住宅の提案」と称されています。

 

この建物の最大の特徴は「ムーブネット」という交換可能なユニットです。

 

浴室・トイレのある水廻りはユニットとして屋内で移動、取り替えができ、また空中高く持ち上げられた床下には空間ユニットの脱着が可能な構造となっています。

 

例えば子どもが成長すると床下から子ども部屋となる空間を吊り下げて増築し、子どもが独立していくと撤去して再び夫婦の住まいに戻せるといった使い方ができます。

 

つまり家族構成、年齢の変化に応じて、部屋の構成自体を自由に変えられたり、取り付け、取り外したりできる、まさに菊竹の理念である「代謝」を鮮烈に体現した作品と言ってもよいでしょう。

 

つい2011年までご存命だったので、思いのほか身近で目にある建物が菊竹作品なのかもしれませんね。

 

以上、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)からでした。

 


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