舞鶴公園ものがたり③


福岡城跡
 

■福岡県庁誕生と贋札事件

第十二代福岡藩藩主・黒田長知を最後に、福岡城は廃藩置県によっておよそ270年にわたり担ってきた藩城としての役割を終えました。

 

1871年の廃藩置県により、福岡藩と支藩の秋月藩をあわせて福岡県が誕生、福岡県庁はそのまま福岡城内に置かれるようになりました。

 

そして1876年に福岡県に三潴県、小倉県が統合されるタイミングで県庁は天神に移転しますが、その場所は実は今のアクロス福岡が建つ場所です。

 

そこから時代を下って1981年に再度移転、私たちが知る吉塚の東公園に建つあの県庁となります。

 

天神県庁の時代は実は100年以上にも上るんですね。

 

ところで福岡県が誕生前に、福岡藩では「贋札事件」というスキャンダルが起きます。

 

福岡藩は当時、戊辰戦争の戦費負担により膨れ上がる藩債の処理に頭を悩ませていました。

 

そこで窮したのか、紙幣として流通していた太政官札の偽札を作りはじめ、それを東北地方や北海道で物資買付け、金銀の交換に使用しました。

 

しかし悪事は結局露見するもので、やがて偽札づくりが発覚します。

 

藩知事の黒田長知はクビ、実行責任者たちはことごとく斬首、末端の役人に至るまで懲役や罰金の処罰が下されました。

 

この事件が衝撃的なのは、行政ぐるみで偽札をバンバン刷る・・・

 

今で言うと福岡県が勝手に紙幣を刷ってしまっている点です。

 

悪質を通り越してもはや奇想天外な事件と言えます。

 

市民たちはまさか自分たちの頭上でこのようなスキャンダルが起きていたとはつゆ知らず、、、

 

しかも前藩主・現知事の首が飛んだとあっては、ただでさえ明治になったばかりなので社会の足腰が定まらず、否応なく動揺が走ります。

 

ピンチヒッターとして有栖川宮熾仁親王が藩知事に就任されてやっと動揺が抑えられたと言います。

 

そして親王は最初の福岡県知事となります。

 

■日本史上最大規模の一揆

さて、時代が明治に移り、ごく短い間だったものの、舞鶴公園は福岡行政の中心であったわけです。

 

しかしこの間、福岡でとある大きな事件が起きるのです。それが

 

筑前竹槍一揆

 

です。

 

1873年6月13日の嘉摩郡(現・嘉麻市)高倉村で、米相場師による米価暴騰への怒りの爆発に端を発しました。

 

そこから、筑前全域の農民はじめ、政府に不満を抱く者が大集結、参加者が最多で30万人超と言われる日本史上最大規模の一揆にまで発展します。

 

天下分け目の戦いの関ヶ原合戦の人数も多く見積もっても20万人程度ですから、

 

この筑前竹槍一揆がどのくらい凄まじい暴動だったのか推して知るべしといったところでしょう。

 

ちなみに当時の市民の数はおよそ43万人、市民の4分の3がこの一揆に参加した計算になります。

 

暴動というよりもはやちょっと内戦ですね・・・。

 

火種は周辺の宗像郡、嘉穂郡にも導火し、たちまち筑前一帯に燃え広がります。

 

不満の矛先は福岡県庁にも向けられました。

 

箱崎に集結した10万人超の一揆民は暴徒となって沿道の家屋を焼き打ち、博多の街を荒らし回りながら県庁に向かって驀進します。

 

ついに6月21日、一揆民は県庁に乱入し、官舎が放火されます。

 

県は士族を組織した鎮撫隊を編成し、県庁に斬り込み、さらに大砲まで持ち出して鎮圧を図ります。

 

21日には一揆農民は箱崎松原まで退却、22日には福岡市内と郊外には一揆は見られなくなり、7月5日には完全に鎮圧されました。

 

この一揆によって県庁役人を含む死傷者が70人、更に4,000人近くが処刑されます。

 

それも含めると約6万4千人が処罰を受けました。

 

破壊された家屋は4,000戸以上、うち焼失が2,000戸に上ります。

 

中でも村役人や豪商、被差別部落の家が集中的に狙われていました。

 

福岡城の下之橋御門には今も竹槍で突かれた跡が残っています。

 
福岡城門
 
筑前竹槍一揆の傷
 

筑前竹槍一揆の特徴を挙げるとすれば、規模もそうですが、農民を含む多くの階層の者が参加した、

 

いわゆる「百姓一揆」とは言えない点でしょう。

 

彼らの要求も年貢3カ年免除はじめ、旧藩の復活、学校・徴兵・地券の廃止など多岐にわたりました。

 

生まれたばかりの明治日本はまだ社会が揺れ動いていた時期でした。

 

新政府への不平不満がいま燻っており、筑前竹槍一揆に続き、佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱…と

 

立て続けに起こり、そして西郷隆盛の西南戦争を最後に日本における内戦が終結します。

 

■福岡聯隊の記憶

下之橋御門のすぐ近くに「福岡聯隊跡の碑」が建っています。

 
福岡聯隊
 

今なお福岡の顔として存在感を放つ福岡城跡と違い、兵どもが夢の跡ではありませんが、かつてここが軍事施設だった足跡を留める唯一の目印です。

 

明治政府の富国強兵策のもと、徴兵令が公布され、国民皆兵の原則となりました。

 

兵部省も陸軍省、海軍省に分割されます。

 

陸軍省は全国を6つの軍管区に分け、うち第六軍管の鎮台(地方を守る駐留軍)は熊本と小倉に置かれていました。

 

福岡城付近一帯も陸軍省の所管でした。

 

県庁が天神に移転する1876年の同年9月に、福岡城跡内に「福岡分営」が設置され、小倉の鎮台から歩兵第十四聯隊の第三大隊が移されます。

 

そして10年後の1886年、明治政府は軍備拡張のため、歩兵第十四聯隊に新聯隊の編成を指示します。

 

これが歩兵第二十四聯隊、いわゆる「福岡聯隊」の始まりでした。

 

同年に明治天皇から軍旗の親授と勅語を受けて、福岡城跡に聯隊本部が設置されるのでした。

 

舞鶴公園は、軍の誕生地でもあったのです。

 

福岡聯隊は日清戦争や日露戦争、シベリア出兵にも出動し、更には満洲にも駐屯します。

 

後に防衛のために台湾高雄州鳳山にも派遣され、そのまま現地で終戦を迎えます。

 

聯隊は林子辺小学校の校庭で軍旗との決別式を行い、軍旗は台南の師団司令部に集められて奉焼されたという。

 

約60年間続いた福岡聯隊の歴史の終止符がここで打たれたのです。

 

福岡各地から若者が何千人とここに集められ、万歳三唱を背中に受けてアジア各地の戦場に赴き、散っていきました。

 

多くの九州男児が生涯最後に目にした故郷の風景がここ、舞鶴公園だったのです。

 

「九州に二十四聯隊あり」と全国に轟かせた彼らの勇名と共に、私たちは一福岡市民として、

 

舞鶴に生きた彼らの短い生に思いを致すべきではないかと思います。

 

■戦後復興のスタート地点

舞鶴公園の歴史を語る上で、もう一つ欠けてはならないファクターが「平和台野球場」です。

 
平和台野球場
 

国体開催をきっかけに、平和台総合運動場は市民のスポーツセンターとして大小様々な催しに利用されます。

 

その頃かねて市民の要望が強かった野球場が建設されることになりました。

 

1949年から着工が開始され、その年の12月には早くも巨人・阪神戦が行われました。

 

平和台野球場の最終竣工・一般公開は翌年の4月からでした。

 

西鉄ライオンズが誕生すると、球場はライオンズのフランチャイズとなり、市民の野球熱を後押しします。

 

そして1954年に夜間照明設備が完成、ナイターが行われるようになります。

 

なおこの年は西鉄ライオンズがパ・リーグ初優勝を果たし、地元ファンの熱狂は最高潮に達します。

 

その後、西鉄ライオンズは西武ライオンズに移り、平成に変わってから野球場は福岡ダイエーホークスのフランチャイズとなります。

 

1993年に百道浜の福岡ドームに移るまでの38年の間、平和台野球場は福岡県民の魂とも言えるホークスの本拠地だったのです。

 

球場は福岡ドームの完成後もしばらくは残されましたが、1997年に老朽化と歴史公園整備のため惜しまれながら閉鎖・解体されます。

 

約半世紀にわたって九州野球界を牽引してきた球場の歴史に幕が下りました。

 

時代と時代、歴史と歴史の境目。

 

そこにはいつも舞鶴公園がありました。

 

私たちが思っている以上に、実に多くの物語がこの場所に沈殿しているのです。

 


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