福岡の場の記憶

大禅ビルのある舞鶴エリアはここ数年で新築マンションが相次いで建ち始め、地価も上がり、にわかに勢いづいてきています。

 

舞鶴エリアは、仕事をするための商業地区的な性格と、暮らしのための生活地区的な性格を両方兼ね備えているのが特徴です。

 

ビジネスマンの姿も、家族連れや子どもたち姿も同じ風景の中に収まる、それが舞鶴の個性であり、魅力となっています。

 

今では福岡の中心と言えば博多、天神ですが、江戸時代まで遡れば筑前の中心は福岡城の建つここ舞鶴なんですよね。

 
福岡城跡
 

舞鶴という地名自体も、福岡城の外見を翼を広げた鶴の姿に見立てたことから来ています。

 

舞鶴一古い「レトロ不動産」、それが福岡城なのです。

 

■福岡城はそもそも軍事施設

筑前国の領主・黒田長政は、1601年から7年の歳月をかけて福岡城を築きました。

 

それによって城下町福岡が誕生します。

 

城と言いますと、お殿様の居所や行政機関というイメージがありますが、そもそもお城というのは要塞、つまり軍事施設です。

 

島津はじめ九州全体に睨みを効かせる機能を与えられた福岡城のかつての大きさは、堀も入れると約14万6千坪に達し、

 

博多に面した那珂川に1.5キロにおよぶ高石垣が築かれ、川の上流にはいつでも使えるように材木が貯蔵されていました。

 

更に食糧と武器の貯蔵庫となる櫓が48つもあったと言われ、櫓の屋根は全て竹で編み、それを干しワラビ結んでいました。

 

有事の際、竹は弓矢に、干しワラビは非常食になり、櫓そのものが武器と食料を供給する拠点と化します。

 

実に隅々まで考え抜かれた実戦志向の軍事基地なのです。

 
福岡城門
 

福岡の城下町の都市計画も、あくまでも福岡城の防衛に主眼が置かれていました。

 

道路も狭く、丁字路、かぎ型路、袋小路などが随所に設けられ、要所に門が築かれました。

 

敵の攻撃を受けた場合、攻めてきた敵が直真っすぐ進めないように配慮されたもので、城下町の典型的な都市構造といえます。

 

■天神のはじまり

江戸時代には、全国的に街道の整備が進められます。

 

福岡城下には「唐津街道」と「日田街道」が通り、メインストリートという意味で「通筋」などと呼ばれ、「魚町辻」(現在の中央区平和台通交差点付近)が街道の起点とされました。

 

城下町の建設も進み、今の日銀の前の通りから福岡六丁筋 (簀子町、大工町、本町、呉服町、西名島町、東名島町)が形成されました。

 

このエリアには旅館や商店、酒蔵、古書店などが軒を連ね、まさに商人の町として賑わったそうです。

 

ちなみに六町筋のうちの名島町は、黒田家が名島から移った時に名島の商人を連れてきたことに由来します。

 

それから上名島町と中名島町があるのに、下名島町がないのは「シモ(下)」は商人にとっては縁起の良くない響きだったから、避けたのだそうです。

 
天神古図
 

町の性格が垣間見えますね。

 

そして大工町の場所に、今の岩田屋の前身となる呉服商岩田屋がありました。

 

当時日本のデパートは殆ど呉服屋から始まっていました。伊勢丹しかし、三越しかり、高島屋しかり。

 
岩田屋
 

デパートは都会的な消費と流行の最先端を担う存在で、その一角に誕生したのが「天神」です。

 

廃藩置県が実施された後、1876年の区制変更により福岡と博多は合併して福岡区になります。

 

ただ一つになっても、武士の町・福岡と町人の町・博多には、依然として「桝形門」によって隔たれていました。

 

まもなく門が撤去され、今の福岡市の誕生に至ります。

 

黒田家が根城にしていた福岡城は県庁舎として使われ、数年後に水鏡天満宮の向かいに移転します。

 

ちょうどいまのアクロス福岡の建つ場所に県庁舎があったわけですね。

 
アクロス福岡
 

■交通インフラがグレードアップ!

江戸時代の陸上の交通手段は、徒歩か駕篭か馬でした。

 

明治に入ってから自由に往来できるようになってから、これまでのさまざまな規制が解かれ、馬車や人力車が登場。

 

輸送手段も大型の荷馬車が出現するなど大きく変化していきました。

 

新しく用いられるようになった交通手段の中で、最もインパクの大きいのはなんと言っても「電車」でしょう。

 

市内電車の開通を契機に西中島橋が架け替えられ、東中島橋、石堂橋も増幅されて近代橋に変わり、市内の交通の便が格段に向上します。

 

千代村~今川間 (旧国道202号線)と博多駅~築港間の縦横の幹線2本が建設され、その後、泥川橋(現在の天神橋)が完成し、中洲橋(現在の西大橋)も再建されました。

 

これら一大工事は、産業博覧会「第2回九州神縄八県連合共進会」に合わせて行われたもので、さらに電車軌道の敷設も急ピッチで進められます。

 

■「電力の鬼」が走らせた電車

電車インフラの発展を語る上でなくてはならない人物がいます。

 

後に「電力の鬼」と呼ばれた実業家・松永安左エ門です。

 
松永安左エ門
 

松永安左エ門は壱岐の商家出身で、学生時代は福澤諭吉の門下生として学び、商社、不動産、酒造業を手広く営んだ後、電力事業に参入します。

 

戦前・戦後にかけて日本の電力産業に巨大な足跡を残した偉人として知られています。

 

戦後日本の電力事業を一社独占ではなく、9つの電力会社に分割民営化させるというグランドデザインを提示したのは彼です。

 

それが今日の大手電力会社10社体制(東京電力、関西電力、中部電力、東北電力、九州電力、

 

中国電力、四国電力、北海道電力、北陸電力、沖縄電力)に引き継がれています。

 

その松永安左エ門が電力事業に関わるきっかけとなったのが、福岡初の電気鉄道である「福博電気軌道」でした。

 

時代は明治末期。

 

莫大な先行投資が必要だった鉄道敷設を実現するには、当時の福岡市の財政や地元資本からの資金調達だけでは難しかったようです。

 

そこで博多湾鉄道や博多電灯を経営していた衆議院議員の太田清蔵を介し、

 

松永安左エ門と、彼の兄貴分であり、師の福澤諭吉の娘婿で、実業家として既に名を成していた福澤桃介に事業設立の打診がなされました。

 
福澤桃介
 

両者はこの難事業を引き受け、福博電気軌道は1909年9月に設立、桃介は社長、安左エ門は専務となり事業を走らせます。

 

突貫工事によってわずか5カ月で6.4kmにわたる鉄道敷設が完成しました。

 

道路整備や橋の建設費を福岡県と福岡市が負担したこともあって、

 

既に運営を開始していた他の都市の電気鉄道に比べて建設費を安価に抑えることができました。

 

このため、福博電気軌道では運賃を1区間1銭という当時としはほぼ最安に近い価格に設定して利用者数の促進に軸を置き、

 

それに合わせて沿線で不動産開発や海水浴場など娯楽産業の展開も進み、天神を含めた福岡全体のマーケットが形成されていきます。

 

この福博電気軌道は後に合併などを経て、今の西日本鉄道に繋がっていくわけです。

 

■通りの名前の場の記憶

戦後、福岡でも復興が進み、東西は北から那の津通り、昭和通り、明治通り、国体道路が、南北には渡辺通りが貫きます。

 

博多港の旧名である那の津に沿うように通る「那の津通り」、昭和にできた代表的な道路の「昭和通り」、

 

道路の大部分に福博電気軌道が走った「明治通り」、第3回国民体一育大会に併せて整備された「国体道路」、博多電気軌道を走らせた呉服商の渡邉與八郎の名に由来する「渡辺通り」。

 

福岡の場の記憶がそれぞれの名前に埋め込まれている通りを、今日もこれからも往来が絶えることなく流れていくのを見ると、自分も歴史の連続の中に生きているんだと、感慨深くなります。

 

以上、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)からでした。

 
天神
 


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