玄洋社 ―舞鶴の「場の記憶」― 

■歴史を思い出すことは、自分を思い出すこと

大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)の建つ舞鶴・赤坂エリアは

 

「福岡」の始まりである福岡城

 

奈良日本の外交と管理貿易を担った鴻臚館

 

「日本造園学の祖」である本多静六博士の設計による大濠公園など

 

古代から近代に至る多彩な歴史を今に留める場所です。

 

「場の記憶」を多く持てるのは幸せなことです。

 

懐かしむ記憶があればこそ人は人足り得るとすれば、「場の記憶」は自らの来し方を思い出させ、確かな手触りを伴って私たちの「いま」に沈積していきます。

 

あるいはそれが「豊かさ」と言えるものなのかもしれません。

 

歴史を思い出すことは、自分を思い出すことでもあるのです。

 

近年、地価とブランドが上向きに好調な舞鶴・赤坂エリアですが、こうした金銭に換算されない歴史文化、

 

それらが掻き立ててくれる私たちの情感もまた、この地区ならではの価値だと思います。

 

とは言え、歴史は往々にして忘れ去られるものでもあります。

 

忘れ去られる儚さを湛えるからこそ、人は歴史を惜しむわけです。

 

今回はそんな忘却に流れつつある舞鶴に眠る歴史について書いてみようと思います。

 

 

■玄洋社とはどういう団体か?

大禅ビルのすぐ隣の丁目、歩いて2分ほどのドコモビルの敷地の一角に「玄洋社跡」と彫られた小ぶりな石碑が建っています。

 

玄洋社
 

玄洋社とは旧黒田藩士を中心に組織され、設立から敗戦までに日本政財界、はてはアジア諸国に強烈な影響力を振るった在野の政治団体です。
 

設立当初は福岡区本町、今の赤坂1丁目に本拠を置いていましたが、後年に石碑の建つ舞鶴2丁目、当時の西職人町に移されています。

 

10年前はここに記念館もあったのですが、それも閉鎖され、今では石碑を残すのみとなっています。

 

今日、玄洋社と聞いて、具体的なイメージが湧く人は少ないのかもしれません。

 

イメージを持っていても「日本の右翼の源流」「危険なテロリスト集団」という見方も多い。

 

事実、大隈重信の暗殺未遂や選挙干渉、国内外の諜報や裏工作といったCIA顔負けの派手な立ち回りをやっていたおかげで、戦後GHQによって

 

「日本で最も気違いじみた集団」

 

として解散させられ、長らく狂信的な国粋主義者のレッテルを貼られてしまいます。

 

今なお毀誉褒貶に富む玄洋社ですが、彼らの源流を紐解くとこの団体の初志は自由民権運動であると分かります。

 

■幕末における福岡志士たちの存在感

様々な考えがあるでしょうが、迫り来る西洋列強の圧力の間隙を縫って、なんとか独立国家として立錐し得た日本の明治維新は間違いなく偉業です。

 

この偉業の達成には多くの人が関わっています。

 

まさに激動という名のバトンを渡していくリレーのようです。

 

そして最後にゴールテープを切った薩長土肥の者たちはなべて建国の功労者として、歴史の教科書にその威名を留めています。

 

ただ、地元人の贔屓だと自覚した上で言わせて頂くなら、そのリレーのスタートを最初に切ったのは我ら福岡だと、一言申さずにはいられないわけです。

 

時は江戸の幕末、内外の動乱に揺れる時期。

 

それは福岡藩とて例外ではなく、藩主の黒田長溥は「尊王佐幕」を掲げ、天皇を尊び、幕府を助ける保守寄りのスタンスで政治を進めていました。

 

これに対し家老の加藤司書や藩士の月形洗蔵、平野国臣らは真っ向から尊皇攘夷論を唱え、幕府を打倒し天皇の天下に復すべしと藩主に迫ります。

 

彼らによって結成されたのが「筑前勤皇党」です。

 

筑前勤皇党は言論だけでなく、藩政を掌握した後、独自に活動を実行するようになります。

 

坂本龍馬も属していた土佐勤王党の支援、幕府の長州征伐中止のための工作、更に雄藩の薩摩藩と長州藩の大物、

 

西郷隆盛と高杉晋作の仲立ちの役割を担い、倒幕の歴史的転換点となった薩長同盟に端緒をつけます。

 
西郷隆盛
 
高杉
 

筑前勤皇党は尊皇攘夷運動の火種となり、日本を縦横に飛び回った幕末の主役だったのです。

 

しかし不幸なことに、幕府の長州再征の発令をきっかけに福岡藩では佐幕派が復権を果たし、攘夷派への弾圧の嵐が吹き荒れます。

 

1865年、藩士ならびに関係者140名以上が逮捕され、切腹、斬首、流罪という凄まじい大弾圧が繰り広げられます。

 

「乙丑の獄(いっちゅうのごく)」です。

 

明治維新における福岡の存在感が薄いのはこの時に有能な人材を尽く失ったからです。

 

明治になっても人材の欠如が後を引き、福岡はしばらく鳴かず飛ばずの状況でした。

 

そうした中、待ち望まれた人材がやっと世に出たのが、頭山満を始めとする玄洋社世代だったのです。

 

■頭山満・新しき世代の誕生

玄洋社の総帥にして「右翼の巨頭・黒幕」と恐れられた頭山満は福岡の西新生まれ、幼少時はサツマイモを売って糊口を凌ぐような貧しい生活を送っていました。

 
玄洋社
 

16歳の時、勤皇派の女傑・高場乱が開いた塾に入門、ここで後に玄洋社の創設メンバーとの出会いを果たします。

 

頭山は西郷隆盛に並々ならぬ敬慕の念を抱いていたと言います。

 

明治9年の秋月の乱、萩の乱にあわせて、頭山は行動に打って出ます。

 

旧福岡藩士と共に蜂起を画策しますが、投獄されてしまう。

 

そして翌年の西南戦争と西郷の死を獄中で知ることになります。

 

西南戦争の時、約500名の旧福岡藩士も呼応した「福岡の変」が起こりますが、瞬くに鎮圧されます。

 

獄中だった頭山は幸いにして福岡の変を生き延びるものの、戦いに馳せ参じたい思いも叶わず、西郷と共に戦えなかった彼の忸怩たる思いが後の玄洋社創設の原点となります。

 

■自由民権を勝ち取るために

西南戦争の翌年、明治11年に大久保利通が暗殺されます。

 

これに接し、頭山は当時自由民権運動の旗手だった板垣退助が西郷の後を継いで決起することに期待して、高知に旅立ちます。

 

しかし、今や武力ではなく、言論による自由民権の獲得を為すべきだと、逆に板垣の情熱にほだされてしまう。

 
板垣退助
 

これをきっかけに頭山は自由民権運動に身を投じていくのでした。

 

高知から帰福した頭山は街の不良たちを集め「向陽社」を結成。

 

翌年は福岡の豪商たちがスポンサーとなり私塾「向陽義塾」を開校し、西洋文明の勉強や武道の訓練を通じて青年の教育に当たります。

 

その系譜が今日の福岡の名門校・県立修猷館高校に繋がっていくのでした。

 

それから向陽社を改め、玄洋社が結成されるに至ります。

 

社員は61名、自由民権運動を目的とした結社で、誰もが西郷隆盛を敬慕していたと言います。

 

玄洋社は多くの民権運動家と結び、国会開設の請願にも参加します。

 

その熱量は板垣退助の土佐勢以上だったと言われています。

 

ついに明治14年に国会開設が発布される至り、人民の権利確立という玄洋社が掲げてきたゴールが達成されます。

 

しかし彼らは、他の民権運動団体のように結党して政界進出しませんでした。

 

政治闘争に明け暮れる政界に気骨の玄洋社メンバーたちはよく思わなかったようです。

 

逆に彼らは、在野にいながら不平等条約改正の反対運動、『福陵新報』(後の西日本新聞)の創刊、

 

鉱山経営などの事業を通じて政財界に強力なネットワークを張り、隠然たる影響力を振るうようになります。

 

不平等条約の改正は開国以来の日本にとって、まさに至上命題であり悲願でした。

 

不平等条約がある限り日本は二等国であり、国際政治・経済の場において常に西洋列強の下風に甘んじなければならなかったのです。

 

しかし政府の改正案はいまだに外圧に屈した内容であったため、自由民権の活動家たちは改正反対を訴えていました。

 

頭山は、その改正反対運動のリーダーだったのです。

 

■アジア各国への支援

当時のアジア・アフリカの大半は欧米列強の植民地の波に晒され、

 

未だ独立を守っている国と言えばアフリカはリベリアとエチオピア、アジアは中東・中央アジアを除きタイと日本だけという過酷な状況にありました。

 

非情な国際政治のパワーゲームにあって、玄洋社は自国を守る為にまず国家独立の国権強化を訴えます。

 

さらに欧米列強の脅威をアジア全体の危機と捉え、植民地に抗うためにアジア各国の独立を支援する「大アジア主義」を打ち出したのです。

 

日本と結んで自国の近代化を目指した朝鮮の金玉均

 

中国の革命の父・孫文や蒋介石

 

インドの独立運動家ラス・ビハリ・ボースとマヘンドラ・プラタップ

 

ベトナムのファン・ボイ・チャウ

 

フィリピンやエチオピアへも支援の範囲を拡げます。

 

特に玄洋社と孫文との関係はよく知られています。

 

孫文を革命初期から支援し、二度にわたる日本亡命での住居や活動費、生活費を世話しています。

 
玄洋社
 

孫文も、後継者の蒋介石も東京の頭山邸の隣で匿われていたのです。

 

玄洋社の存在がなければ中国の近代化も遅れていたのかもしれません。

 

玄洋社は大陸で活動するため海外工作機関まで設立します。

 

「黒龍会」と言って、物々しい名前ですが、由来は中国・満州を流れる黒龍江です。顧問は頭山が担いました。

 

時代が異なるとは言え、同じ日本人に思えないほどにそのスケールはなんとも凄まじく、

 

そして何よりも、任侠と道義に生き、圧倒的な熱量で時代と世界を動かした福岡の志士たちがここ舞鶴に集結していた事実に、歴史物語の豊穣さに感嘆を禁じ得ないのです。

 
玄洋社
 


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