建築史シリーズ 日本の近代建築㉑

弊社、大禅ビルが行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。

 

そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、

 

そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。

 

とは言え、私は専門的に教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。

 

本物のデザイナー、建築家というのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものだと思っています。

 

このシリーズではそうした美に携わってきた建築家たちを中心にご紹介していきます。

 

◯帝国ホテル新館の設計者・高橋貞太郎

高橋貞太郎は東京帝国大学工科大学建築学科で佐野利器に学び、佐野利器門下の四天王の一人だと言われています。

 

さらに、卒業時には成績優秀につき天皇から恩賜の銀時計を授与されるほどの秀才でした。

 

ちなみにこの天皇恩賜の銀時計は、第2次世界大戦まで、軍学校、帝国大学、学習院、商船学校で、各学部の成績優秀者に天皇からの褒章として天皇臨席の卒業式で授与され、至高の名誉とされました。

 

受賞者は「銀時計組」と呼ばれ、帝国大学では対象者の選定時に際して、成績に加えて人格も評価したそうです。

 

高橋は卒業後、滝川鉄筋コンクリート工務所を経て、内務省明治神宮造営局技師となり、佐野の指導のもと聖徳記念絵画館(明治神宮外苑所在)の実施設計に従事します。

 

その後宮内省内匠寮技師となり、赤坂離宮の改修や宮邸の建設に関わりました。

 

佐野利器(当時東京市建築局長を兼任)の尽力により復興建築助成株式会社が設立されると、技師を務め、そして独立。

 

戦争中は朝鮮半島に渡りホテル建設に携わりました。

 

高橋を最も社会的に有名にしたのが、帝国ホテルとの関わりでした。

 

 

フランク・ロイド・ライトの設計した帝国ホテル本館は関東大震災を耐え抜いたと言われますが、実際には少なからぬ被害を受けていました。

 

既に施設の不備による建替えの計画があり、その設計を高橋が担う予定でした。戦争による中断を経て、1960年代に帝国ホテル新本館の建設のため、ライト館の取壊しが決定します。

 

しかしライトの作品の保存を願う人々による保存運動が起こり、高橋はライト館を取り壊してまで新本館を設計した人物として「建築の芸術的価値を無視している」といった批判にさらされました。

 

最終的にライト館は1968年までに取り壊され、新本館が1970年に竣工します。

 

その年に高橋は京都で倒れ、亡くなりました。

 

ライト館の建替えは数十年越しのプロジェクトと言えますが、ライト館が余りにも有名で伝説的な存在であったため、高橋の新本館が評価されることは少ないそうです。

 

前田侯爵邸洋館

 

 

旧加賀藩主前田家の本邸です。

 

構造は鉄筋コンクリート造2階建て、地下1階、塔屋付き。

 

外観は15世紀末から16世紀半ばまで見られたイギリス・チューダー様式風で、後期ゴシックからルネサンスへの過渡期に位置付けられる様式です。

 

特徴は西洋城郭のような高い塔。垂直性と重厚感を際立たせています。

 

日本橋高島屋

 

 

高橋がコンペで当選し、実施設計を行いました。

 

鉄筋コンクリート造の地上8階地下3階建て、屋上塔屋4階付き。

 

高橋が設計したのは中央通りに面した西方の約1/3の部分。残りは昭和26年から40年にかけて計4回行われた増築部分で、村野藤吾が設計しました。

 

外観は3層構成。1階と2階を基部としてコーニスを角柱の列柱で受け、3階から7階は柱間を3分割した長方形の開口とし、8階部分は柱間を3分割した半円アーチの開口となっています。

 

これらは西欧の歴史様式を踏関した意匠です。

 

入り口や、最上部の庇を垂木型とする点は日本的であり、コンペの要件であった「東洋趣味を基調とする現代建築」に対する高橋の回答だと思われます。

 

◯北の大地で活躍した現代建築家

田上義也は通称「エゾライト」とも呼ばれ、フランク・ロイド・ライトのデザインの系譜を継承する建築家であり、同時に北海道で活躍した建築家でもあります。

 

昭和初期まではライトの影響が強い作品を多く手掛けていました。

 

後期からは雪国の環境に適した建築を模索するようになり、ライト風のデザインを継承しながらも独自の建築を創造していきました。

 

田上はフリー建築家の先駆けとも言われています。

 

彼が北海道に渡った大正12年には、当地に定住しながら創造性や知性をもって本格的な建築活動をする人はおらず、フリーな立場の建築家の先駆けとなったのです。

 

田上自身も「寒冷積雪の北海道は設計者という者には全く無縁であり、必要とされなかった時代であったから、この道で生きてゆくことは生易しいものではなかった」と振り返っています。

 

網走市立郷土博物館

 

 

有機的な外観の木造2階建ての展示施設です。

 

田上の描いた斜めから見た透視図では、屋根が海や緑陰に溶け込むように描かれ、高台にある緑に包まれたアプローチからの見え方を意識して設計されたものと考えられます。

 

半円アーチを設けて、曲面の太い柱型で支えることで縦軸を強調しています。

 

旧小熊邸

 

 

北海道帝国大学農学部の小熊博士の住宅。

 

この住宅はもとは市の別の場所にありましたが、保存運動を経て現在地に移築されました。

 

平成7年夏頃に解体の懸念が生に市民の要請を受けて平成9年9月に保存が決定。

 

平成10年5月に解体され、窓枠などの部材は可能な限り移設していますが、主な部分は現代の技術によって再現されています。

 

軒が大きく張り出している点や、外壁の羽目板が水平性を強調している点などから、師匠であるライトの影響がうかがえます。

 

幾何学的な窓割のデザインや直線的な破風、屋根の端部を縁取るような構成などライトのデザインが色濃く継承されています。

 

◯早逝の天才・岩元禄

岩元禄は稀に出現する天才型の建築家で、その早逝は建築界にとっての一大不幸と評されました。

 

 

歴史主義から離れ、斬新なデザインの作品を設計し、建築を創造として捉えた姿勢は同世代、次世代の建築家に影響を与え、分離は建築会の誕生に繋がったのです。

 

建築家、建築教育者として将来を嘱望されていましたが、病気のため29歳で亡くなりました。

 

そのため作品数もわずか3作品に留まっています。

 

旧京都中央電話局西陣分局

 

 

岩元の貴重な実作です。

 

構造は鉄筋コンクリート造2階一部3階建。

 

ドイツ表現主義的な造形意匠が本近代建築史上重要であるとして、国の重要文化財に指定れました。

 

油小路通りと中立売通りという狭い道路の角地に建っています。

 

角地を3階建て、背面を2階建てとしてパースを効かせる視覚的効果により圧倒的な存在感を放っています。

 

外観の構成はモダニズムで、壁面も基本的にはフラットな表現となっています。

 

側面の連続する柱型や正面の3本の柱は、ヨーロッパの古典主義的な建築の名残りを見せ、正面の半円アーチに納まる踊り子のレリーフや柱頭のトルソーには新たな建築デザイン表現への胎動が見られます。

 

以上、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)からでした。

 

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