建築史シリーズ 日本の近代建築①

弊社、大禅ビルが行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。

 

そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、

 

そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。

 

とは言え、私は専門的に教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。

 

本物のデザイナー、建築家というのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものだと思っています。

 

このシリーズではそうした美に携わった先人たちが紡ぎ上げてきた建築の歴史を中心にご紹介していきます。

 

◯日本最古の教会

長崎にあるカトリック教会、大浦天主堂は、江戸時代幕末の開国後に竣工しました。

 

 

日本に現存するキリスト教建築物としては最古に数えられます。

 

正式名は日本二十六聖殉教者聖堂で、その名のとおり日本二十六聖人に捧げられた教会堂です。

 

大浦天主堂は当初、塔はゴシック風、壁はバロック風と言ったように、西洋建築の様々な様式が混ざり合っていました。

 

1875年に大規模改修を行い、木造を取り込みつつ外壁を煉瓦造にして完全にゴシック風にまとめられました。

 

外壁表面は漆喰などに覆われていて、煉瓦は表面に露出していません。

 

煉瓦を意匠材として意識せず、石造を模した結果です。

 

国も材料も大工の技も違うため、本場のゴシック建築と全く同じように作るのは困難でしたが、

 

知恵を絞りながら、少しでも教会にふさわしい姿を模索して作り上げた日本発教会建築が大浦天主堂だったのです。

 

◯文明開化の象徴・富岡製糸場

明治維新によって開国した日本は、富国強兵を通じて列強と対等な立場になることが急務でした。

 

産業や科学技術の近代化を進めるためには資金が必要で、そこで力を入れたのが生糸の輸出だったのです。

 

生糸生産の拠点として建てられたのが富岡製糸場でした。

 

 

富岡製糸場は木骨煉瓦造という木造の骨組みの間に煉瓦を詰めた工法で作られており、これは今までの日本にはなかったものです。

 

設計者であったバスチャンは、西洋建築の鉄骨煉瓦造をベースに日本伝統の木造技術を融合させ、木骨煉瓦造を作り上げたのです。

 

2014年、富岡製糸場は世界遺産に登録されました。

 

技術革新によって工場建築はどんどん増改築されることが多いですが、富岡製糸場はすべて建設当時のまま残っているという稀な存在でした。

 

さらに柱、梁といった構造を美しく見せるというモダニズム建築の原理にも則っており、建築遺産としての富岡製糸場の価値を高めています。

 

 

◯擬洋風建築は日本オリジナル

旧開智学校は1876年に長野県松本市に建てられ、その後同市内の開智に移築された小学校です。

 

 

その擬洋風建築の校舎は、文明開化時代の学校建築を代表する建物として広く知られており、2019年に近代学校建築としては初の国宝に指定されました。

 

擬洋風建築とは、幕末から明治時代初期の日本において、主として近世以来の技術を身につけた大工棟梁によって設計・施工された建築を指します。

 

従来の木造日本建築に西洋建築のデザインや中国風の要素を混合し、庶民に文明開化の息吹を伝えようと各地に建設されました。

 

旧開智学校も西洋館なのに唐破風や擬宝珠がついていたり、中華建築のモチーフである龍やギリシャ風の柱があしらわれたりしています。

 

そんな擬洋風建築ですが、明治も20年を過ぎると作られなくなっていきます。

 

数十年という短い期間だったからこそ、擬洋風建築は日本の近代建築の発展のオリジナリティを示してくれる象徴的な作品となっています。

 

◯ベランダはいつ生まれた?

旧岩崎邸は、1896年に三菱を創設した岩崎家の第三代当主・久彌の本邸として建てられました。

 

 

設計者はイギリス人建築家ジョサイア・コンドル。

 

旧岩崎邸は建築家が作ったもののうち、日本に現存するベランダ付きの洋館としては最古です。

 

現代の住まいを見ると木造一戸建て住宅やRC造のマンションには、当たり前のようにベランダがついています。

 

なお、建物と一体のものをベランダ、突き出たものをバルコニーといいます。

 

ベランダはそもそも日本の建築になかったものです。

 

和風伝統建築の2階には高欄があることもありますが、ベランダのように立って外に出るための場所ではありません。

 

日本の民家はそもそも平屋ばかりでした。

 

明治時代になり、ベランダ付きの洋館が建てられるようになります。

 

しかしベランダは、本家ヨーロッパの洋館を通じて伝わってきたわけではないんですね。

 

実は日本に来る前の西洋人は、植民地となったアジアの国々に進出しており、そこでは現地人に襲われることが多かったのです。

 

なので窓は小さく、1階は倉庫、2階に居室を当てて襲撃に備えました。

 

ところが窓が小さく、風が抜けない造りだと暑さで病気になってしまうので、洋館の外部に半屋外の空間を作ったのです。

 

これがベランダとなって、日本に伝わってきました。

 

風通しは抜群、そして食事や昼寝ができるベランダのおかげで、生活が遥かに快適になりました。

 

建築はその土地の気候風土と社会背景によって変化していくということがよくわかる例ですね。

 

◯琉球民家

沖縄本島から少し離れたところに伊是名島があります。

 

島には5つの集落がありますが、その中の伊是名集落に銘苅家住宅があります。

 

伊是名集落は赤瓦屋根の民家、サンゴを積んだ石垣、フクギ並木など沖縄の伝統的な集落景観の中に、古い風習や行事など人々の生活が色濃く残っている集落として知られ、

 

そして銘苅家は琉球王国の王であった尚円王の叔父の子孫で、代々島の地頭職を務めた旧家です。

 

銘苅家住宅の構成は、敷地中央に母屋(ウフヤ)と台所(トングワ)からなる主屋、南西に離れ座敷(アシャギ)、西の端に蓄舎(ウシヌヤー)があります。

 

ウフヤとトングワとアシャギは、ひと繋がりの寄棟屋根が架けられ雨端(アマハジ)で繋がっています。

 

 

雨端とは、雨や強い日差しを遮りながら通風を確保する、奥行きが半間ほどの軒下空間です。

 

沖縄の民家には玄関がなく、近所の人などは二番座(表座)から直接出入りをします。

 

雨端に使われる柱はイヌマキ(チャーギ)と呼ばれる木です。

 

沖縄では主要な建材であり、強度や耐久性に優れています。

 

自然に生えた木の根元は特に水に強く、雨端柱には最適の材料です。

 

銘苅家の主屋の雨端柱はあえて製材せず、自然に生えていたままの姿で用いられています。

 

伊是名島には「イヒャジューテ」という古い風習があります。

 

これは、「誰でも気軽にどうぞ休んでいってくださいね」という意味であり、二番座の前の縁側の部分に、さんぴん茶とお菓子をお盆に載せて置いておきます。

 

雨端は人と人が出会う空間なんですね。

 

以上、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)からでした。

 


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