崇福寺
福岡市ビルティング協会の研修会で博多千代にある崇福寺に行って参りました。
400年以上に上る由緒あるお寺なだけあって、木の根のように福博の歴史に深く関わっています。
崇福寺はもともと博多ではなく太宰府にありました。
1240年に天台宗の僧侶・湛慧(たんえ)によって建立されています。
翌年に、宋から帰国した聖一国師が開堂説法を行い、
「勅賜萬年崇福禅寺」
をお寺の名前に掲げ禅寺としました。
この聖一国師は、まさに今、博多の夏を一層夏らしくしている最大のお祭り
「博多祇園山笠」
の生みの親とされています。
ですから崇福寺は山笠ともゆかり深いお寺なのです。
時代は下って戦国時代、太宰府にあった崇福寺は不幸にも戦火で焼かれてしまいます。
後に黒田如水、黒田長政親子ら黒田家が筑前入りした際に、崇福寺を太宰府から博多に移し、菩提寺としたのが、ここの崇福寺の始まりです。
そういった関係で崇福寺は黒田藩からとても優遇されました。
崇福寺は、同じく博多に寺院を構える聖福寺、承天寺と合わせて
「博多の三禅窟(さんぜんくつ)」
と呼ばれていますが、領地は聖福寺200石、承天寺100石に対し、崇福寺は最高の300石。
それゆえ規模も半端なく大きいもので、大戦の空襲で破壊されるまで、境内は海岸まで見渡す限り広がっていたほどだったと言う。
崇福寺は特徴的な門構えをしています。「山門」と呼ばれる門は、大禅ビル(福岡市 天神 賃し事務所)近くにかつてあった福岡城の本丸表御門を移築したものです。
まさに徹頭徹尾、黒田家のためのお寺。
今で言うと自治体の首長お抱えの指定業者といったところでしょうか。
しかし、崇福寺では黒田家のみならず、本コラムでも紹介しました頭山満始め、玄洋社関係者らの墓所も置かれているんです。
中世から近代にかけての福博の群像たちの面影が行き交い、生きた証を引き受ける。
それが崇福寺というお寺なのかもしれませんね。