医療の歴史・ストリキニーネ
今日のように、病原菌を遺伝子レベルで把握し、ワクチンや抗生物質、薬や手術の開発ができるようになるまでに、それこそ神頼みの時代から長い年月にわたる試行錯誤がありました。
前にご紹介した水銀しかり、ヒ素しかり、今の常識では考えられないような医療が有効だと信じられていたケースが過去にありました。
そうした先人たちの悪戦苦闘の積み重ねが、今日の最新医療の土台になっているに違いありませんが、それにしてもびっくりを通り越して笑ってしまうような医療がたくさんあります。
今回は引き続きそうしたびっくり仰天な医療の歴史をご紹介していきたいと思います。
■猛毒の代表格
ストリキニーネは、一般人はあまり耳にしない名前ではないかと思います。
かつては万能薬と信じられ、特に生薬、強壮剤としては20世紀に入っても人気が高く、大衆向けに販売されていた薬物です。
しかしその実体はわずか30mgで人を死に至らしめるほどの猛毒で、殺鼠剤としても使われていました。
ストリキニーネはマチンというインドや東南アジア原産の落葉樹から得られます。
マチンは成長すると高さ12メートルにもなる高木で、一見してなんの変哲もない木のように見えます。
小ぶりのオレンジ色の果実の中には白い果肉に覆われた直径1-2cm程度の平べったい種子があり、
この種子にはストリキニーネが最高3%という濃度で含まれています。
種子一つで人の致死量に達する毒を持っているのです。
ではストリキニーネはどういった猛毒を持つのか?
神経の興奮を抑制する神経伝達物質を阻害するからです。
つまり「興奮のブレーキを効かなくさせる」作用があるわけです。
中毒症状としては痙攣、のけぞり、顔の痙攣、筋肉の激しい痛み、最悪の場合呼吸麻痺により死に至ります。
ただストリキニーネ自体は体内での分解は早いので、中毒から奇跡的に24時間を乗り越えれば生存率は高くなるようですが、チャレンジはおすすめしません(笑)
■もう一度歩けるようになるか?
マチンの種子は中世以降のヨーロッパでは殺鼠剤として使われていましたが、1811年にパリの医師のピエール・フーキエが、この種子を医療に使えないかを研究し始めたのです。
電気ショックのように筋肉に強い刺激を与えるストリキニーネが運動麻痺の患者の機能回復に使えるかもしれないと考えた彼は、
運動麻痺の患者を対象にストリキニーネの入ったアルコール溶液で実験を行いました。
実験台にされた患者の中には体が運動能力を取り戻したかのように見える人もいたそうですが、凄まじい痙攣に襲われ、あげくの果てに絶命と思われる患者もいたと思われます。
後にマチンの種子からアルカロイドであるストリキニーネの単離が成功し、ストリキニーネの薬効を調べるためにフランスでは次々と実験が行われました。
ただその結果、致死レベルの中毒症状を引き起こすことが分かっただけで、その危険性からストリキニーネはやがて医療現場からその姿を消していきます。
不幸にも犠牲になってしまった患者も多くいたことでしょう。
■素敵な夜の性生活に・・・
ストリキニーネは性欲を促進する催淫剤としても使えないかと考えられていました。
ほんのわずか服用するだけで感覚器官が敏感になるという覚醒効果があったからです。
ストリキニーネに性欲亢進作用があるという考えは昔からあったようで、19世紀にインドや東南アジアからマチンがヨーロッパに輸入された時、
この植物には性欲を高める効果があると言われ、実際に性機能不全に効いたという記録も残っています。
1960年代には、アメリカのマイアミを拠点とするオール・プロダクッ・アンリミテッド社がかつてストリキニーネが精力剤として使われていたことを聞きます。
そこに商機を感じ取った同社は、ストリキニーネを含むJEMS(ジェムズ)という催淫剤を発売します。
しかしこの会社は間もなく詐欺の疑いで告発されます。
それはストリキニーネを入れなかったからではなく、これを飲むと性欲が高まると根拠なしに宣伝していたからです。
つまりストリキニーネの性欲亢進の効果は科学的に証明されていなかったわけですね。
■ミステリー小説の常連アイテム
猛毒でかつ激しい苦痛を伴うストリキニーネは、しばしばミステリー作品の殺人事件にも登場します。
ごく微量でも口に入れた瞬間吐き出してしまうほどの強い苦みを持つため、どうやって相手に気づかれずに致死量を飲ませるかがトリックの見せどころで、
「ミステリーの女王」であるアガサ・クリスティのデビュー作『スタイルズ荘の怪事件』でも、ストリキニーネを使ったトリックが用いられています。
薬剤師の助手として働いた経験をもつ彼女の知識がトリックを考えるうえで役に立ったのかもしれません。
ほかには横溝正史の長編推理小説『八つ墓村』でも連続殺人の道具として硝酸ストリキニーネが使われています。
そして残念なことに、現実世界でもストリキニーネは殺人に用いられたことがあります。
1993年の埼玉愛犬家連続殺人事件です。
ペットショップを経営していた加害者が顧客数人を毒殺した事件で、その際に使ったのが犬の殺処分用の硝酸ストリキニーネでした。
■カフェインで疑似中毒体験?
現在では劇薬に指定されているストリキニーネは、研究用試薬として使われる以外に、治療薬にはほとんど使われていません。
ですから日本での日常生活していればでストリキニーネと接する機会はまずないでしょう。
また、ストリキニーネは世界アンチ・ドーピング機関によって禁止薬物にも指定されています。
というのもストリキニーネはアスリートのエナジードリンクとして服用されていた背景があったからです。
1904年のオリンピック米セントルイス大会では、マラソンに出場したアメリカ人選手トーマス・ヒックスがレース中にストリキニーネを二度にわたり摂取、
優勝したものの痙攣、幻覚を起こしてゴール直後に昏倒し死にかけるという出来事がありました。
当時は今と違って、アスリートのドーピングが良しとされていた時代でした。
また2001年にウエイトリフティングのインド人選手、クンジャラニ・デヴィは尿検査でストリキニーネが検出され、出場停止処分を言い渡されています。
インドでは代替療法の治療薬として今でもマチンが手に入るので、それを服用したのではないかと言われていますが、当人は飲みすぎたコーヒーのカフェインのせいだと無実を主張したそうです。
彼の主張の真偽は別として、実際のところストリキニーネはカフェインと分子構造が似ており、人体に及ぼす機能も似ています。
コーヒーを飲みすぎた時に脈が速くなったり、手が震えたり、落ち着かなくなったりしますよね。
これらはストリキニーネを摂取した時の症状と同じです。
ただストリキニーネの方が効果は遥かに強力で、ごく少量でも冥界送りにされてしまう可能性があるわけですが・・・。
■ビールの食品偽装にもってこい
ストリキニーネは食品偽装にも使われていました。
19世紀のイギリスでは、水で薄めたビールにストリキニーネの粉を溶かして客に出すあくどいパブも多かったとか。
ほんのちょっとの量だけでもホップに似た苦味が出すことができて、しかもアルコール同様の興奮を味わえるからです。
健康を害して、亡くなったイギリスの飲兵衛もさぞ多かったでしょう。
ビール好きの私としては、肝が冷える話ですね・・・。
今の時代に生まれて本当によかったと思わざるを得ません。
以上、大禅ビル(福岡市 天神 賃貸オフィス)からでした。