建築史シリーズ 中世の日本建築②

弊社、大禅ビルが行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。

 

そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、

 

そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。

 

とは言え、私は専門的に教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。

 

本物のデザイナー、建築家というのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものだと思っています。

 

このシリーズではそうした美に携わった先人たちが紡ぎ上げてきた建築の歴史を中心にご紹介していきます。

 

◯贅沢と家格の象徴

日本家屋に使われる長押。

 

鴨居の上から被せたり、柱間を渡せたりするように壁に沿って取り付けられる化粧材です。

 

昔の日本で和室を立派に設えることは、その家の格の表れでもありました。

 

長押はその格を表す上でも重要な要素の一つだったのです。

 

長押は化粧材ですから、言わば賛沢品です。

 

みんながこぞって格式のある和室を作り始めたのは、江戸幕府によりたびたび発令された奢侈禁正令を守る人が少なくなっていったためで、財力を持ち始めた商人は幕府の言うことを段々と聞かなくなったのです。

 

長押は基本、将軍のいるお城など権威の場に使われていました。

 

例えば二条城二の丸御殿にも長押が取り付けられ、格のある空間を作り上げています。

 

 

◯茶室の祖

二条城二の丸御殿は、格式を重んじ、おもてなしを志向したトップクラスの書院造です。

 

だがある時、その固さを崩す人物が現れました。

 

その人物こそ、千利休です。

 

そして出来上がったのが待庵に代表される茶室でした。

 

 

千利休はあえて書院造の形を崩し、不完全なものの中に美を見出したのです。

 

これが数寄屋の誕生です。

 

書院造は定まった規範に則った様式であるのに対し、数寄屋は丸柱や曲木なども使い、開口部の配置や天井、壁、床といった各部の組み合わせに圧倒的自由さ、遊びが許されているのが特徴です。

 

これにより建築の可能性が一気に広がりました。

 

こうして生まれた数寄屋の最高傑作が桂離宮です。

 

 

桂離宮は八条宮智仁親王のための別邸でした。

 

大工たちはこぞって腕を競い、障子に映る樹々の影、聞こえる音、活けられた花などから無限の世界への連想ができる豊かな空間をいくつも創り出したのです。

 

数百年前に生み出された数寄屋の傑作は、ドイツの建築家ブルーノ・タウトはじめ、多くの人々に感動を与えました。

 

◯茶室のイノベーション

織田有楽斎は織田信長の実弟で、信長没後も秀吉・家康の時代を生き延びた人物です。

 

千利休から茶を学び、有楽流を開き、利休以降もっとも優れた茶室を残した茶人と評されています。

 

織田有楽斎の如庵は、それまでの茶室の常識を覆した秀作です。

 

 

一般的に茶室の広さは畳数で呼称します。

 

四畳半や六畳などがその例です。

 

また、茶室に接する形で、中柱袖壁で仕切られた点前畳を付す場合があります。

 

これは台目構と呼ばれています。

 

有楽斎は、二畳半や一畳半などは客を苦しめるものとし、三畳半をよしとしていました。

 

有楽斎は床の間脇の板入を足することで点前座と客座の動線を円滑にし、かつ視覚的な広がりも与えています。

 

そして、板入も半分で足りると有楽斎は考え、残り半分を斜め壁で囲い込んでしまいました。

 

これが有楽囲いと言われる部位です。

 

このようなあえてデッドスペースをつくる方法はもったいないと考えてしまいがちですが、ここに有楽斎の自由な発想と独創性を読み取ることができます。

 

実は如庵以外には、この有楽囲いを見ることはできません。

 

有楽斎はその都度発想し、多彩なスタイルの茶室に挑み続けたとされる茶人で、有楽囲いも突き詰めた結果、生まれたに傑作なのでしょう。

 

一見、破天荒にも見えるこの独創性も、茶の湯は客をもてなすものというブレない思想を礎としてこそ発揮されたのです。

 

◯武家のための茶室

江戸時代に入り、茶の湯の裾野が広がる中で、日常的に茶の湯を楽しみたいという要請が主に武士階級から出てきました。

 

この難題に挑んだのが、小堀遠州です。

 

なぜ難題なのかと言えば、武士階級の住宅様式であった書院造はすでに一定の形式が確立されており、お茶を点てるための炉などを不用意にもち込むと書院造とは見なされないおそれがあったからです。

 

それでも、主人が客の目の前で茶を点てることができなければ、茶の湯にはなりません。

 

そこで遠州は点前座を部屋の附室のように隣接をさせました。

 

こうすることで、書院造の雰囲気を損なわずに、茶室と融合することに成功したのです。

 

この点前座の形式は台目構と呼ばれており、実は小堀遠州より前の千利休の時代ですでに試されていました。

 

当時さほど流行らなかったそうですが、小堀遠州が書院造に持ち込んだことで、その後の書院造の可能性を大きく広げたと言われています。

 

◯日光東照宮の秘密

日光東照宮は徳川家康を祀る神社として、家康本人の遺言により建立されました。

 

 

家康は徳川政権の永続のみならず、幕府の安定を強く願っていました。

 

再び戦乱の世に戻らないようあらゆる施策を施し、その仕上げが「神に祀られ国を守る」ことであったと言われています。

 

家康の遺言に従い、本人は久能山に葬られました。

 

久能山の墓は西向きに設置されていますが、久能山は北緯34度57分であり、同じ緯度を西に辿ると、三河国の風来寺山、岡崎を経て京都に至ります。

 

岡崎は家康生誕の地であり、鳳来寺山は家康の実母が子授けの祈願をしたとされ、いずれも家康のゆかりの地です。

 

この東西軸というのは春秋分における日の出・日の入の方向で、古来より様々な意味づけがされてきました。

 

生誕地の同緯度上に埋葬されることで、太陽と同じように生死を繰り返す神としての再生を家康が意図したと読み取ることができます。

 

そして日光東照宮が建立され、家康が分祀されます。

 

日光は江戸のほぼ真北にあります。

 

北極星の軸線上に東照宮が鎮座することにより、江戸は宇宙を司る神に守られることとなったのです。

 

また、久能山と日光の軸線上に富士山が位置することも特筆すべき点です。

 

久能山と日光はお互いを見通すことはできませんが、富士山を望むことで軸線上に互いの存在を確認することができるのです。

 

久能山東照宮の社殿は富士山から日光に至る北北東の軸線上に配置されており、そのことが意識されていたことを知ることができます。

 

このように見てくると家康は、以後の天下泰平を真に願い、あらゆる宇宙論を駆使しながら、その実現を志したことが見て取れます。

 

その後の150年にわたる徳川幕府の安定政権は、この家康の執念ともいうべき強い想いに支えられていたのかもしれません。

 

以上、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)からでした。

 


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