建築史シリーズ 中世の日本建築①

弊社、大禅ビルが行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。

 

そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、

 

そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。

 

とは言え、私は専門的に教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。

 

本物のデザイナー、建築家というのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものだと思っています。

 

このシリーズではそうした美に携わった先人たちが紡ぎ上げてきた建築の歴史を中心にご紹介していきます。

 

◯三十三間堂を形作る和小屋構造

京都に行けば、誰もが訪れたいであろう三十三間堂。

 

 

建物の正式名は蓮華王院本堂と言います。

 

天台宗妙法院の境外にある仏堂として1001体もの千手観音像がびっしり立ち並び、その迫力は参拝客を惹きつけてやみません。

 

三十三間堂という名前は、南北120mに渡る大きな本堂の内陣に「33の柱間」があるという特徴に由来します。

 

勾配屋根の形を作るための架構の形式を和小屋と言いますが、三十三間堂はこの和小屋を横に延々と繋げることで長大な空間を作り上げています。

 

日本のお寺を見てみると、横長が多いことに気づきます。

 

それに対し、西洋の教会などは縦長に伸びていく形態が多い。

 

シンプルな和小屋であっても、ちょっとしたアイデアで建築空間は大変身できるわけです。

 

三十三間堂では通し矢などの行事も行われています。

 

建築の形状が内部の用途に対応しつつ、行事にも対応している面白い建築例と言えますね。

 

◯日本最古の禅宗様

円覚寺舎利殿は、鎌倉で唯一の国宝建造物です。

 

 

入母屋造、杮葺きとなっており、鎌倉市西御門にあった尼寺太平寺の仏殿を移築したものと推定されています。

 

禅宗様は、禅宗が栄西によっても南宋からもたらせられたことが始まりです。

 

大仏様と同様、貫を用いて構造面の強化を図っていること、細部に装飾彫刻を多用していることがポイントです。

 

珍しい急勾配な杮葺きや、屋根の四方の反り上がりが華やかな印象を与えてくれます。

 

大仏様はやがて急速に使われなくなる一方、禅宗様は幕府の庇護のもとで確固たる基盤をもって全国に普及していきます。

 

禅宗様は、時の権力者が推進したものは陸盛する例として代表的なものと言えるでしょう。

 

◯最初の書院造

慈照寺は室町幕府8代目将軍、足利義政により、自らの居住のための山荘として建立されました。

 

現在の慈照寺の境内にある建物の中で、義政の建立当時から残存する建物は通称銀閣と呼ばれる観音殿、そして東求堂です。

 

有名なのは銀閣の方ですが、ここで取り上げるのは日本最古の書院造である東求堂です。

 

 

父や兄を早くに失い、わずか9歳にして家督を、15歳にして将軍職を継ぐこととなった義政ですが、その若さもありほぼ実権をふるえない状況の中、応仁の乱を引き起こしてしまいます。

 

都に絶大な被害をもたらし、世間から大きな非難を受けたこの戦火に対し、義政はまるで人ごとのように背を向け、ひたすら芸術の世界を追い求めます。

 

10年にわたる戦の後、義政は将軍職を退き、その後の生涯をかけ慈照寺を建立しました。

 

中でも東求堂内の同仁斎は、日本初の四畳半として、建築史上重要な意味を持っています。

 

足利義政がもっとも愛したともいわれる四畳半の同仁斎。

 

違い棚と付書院を有する座敷飾りとしては現存最古のもので、書院造の原点といえます。

 

禅宗の影響を受けたその佇まいは、祖父・定利義満が建立した金閣寺のきらびやかさとは対照的に、静や悟りの象徴と見ることができます。

 

同仁斎とは「聖人は一視して同人なり」、つまり「同じ人間に差別はない」という意味です。

 

義政はこの室に気の合う仲間を招き、身分の隔てなく同じ時間を共有したいという想いが生涯最後の願いだったのかもしれません。

 

身分の分け隔てなく人を招くという精神が四畳半という絶妙な空間を生み出しました。

 

限られた空間における心の触れ合う重要性を、乱世を生き抜いた義政だからこそ深く実感していたのかもしれません。

 

そして、この美的感覚は脈々と現代まで受け継がれています。

 

義政の美への造詣の深さに日本文化の原点を見ることができるのです。

 

◯戦国時代の防衛拠点

日本建築の名物、城郭建築。

 

なぜ、このような城郭建築が生まれたのでしょうか?

 

お城がそれまでの寺社建築と大きく異なる点は、戦のために急いで建てる必要があったことです。

 

そのため、城郭建築は迅速に建てられる工法とそれを可能にする素材で作られました。

 

中でも松本城は連結複合式五重六層の木造のお城はとても貴重で、国宝になっています。

 

 

石垣は自然石をそのまま積み上げた野面積み。排水しやすい機能性を備えています。

 

また、石垣の中には軟弱地盤に対応できるようツガの丸太杭が組み込まれており、また石垣上には鉄砲狭間が巡らされ、隙間から敵を狙う撃ちできるようになっています。

 

関ヶ原の戦い以前の戦国時代に建てられたため、実用向きな設計になっているんですね。

 

さらに松本城には、実際どうやって使っていたかわからない空間がまだまだあると言われています。

 

◯侘びの美の原点

妙喜庵待庵は、千利休作として伝えられる現存唯一の茶室です。

 

 

広さはなんと、たったの二畳。

 

なぜ利休はこのような空間を目指したのでしょうか?

 

侘び茶の祖といわれる村田珠光が登場する室町後期以降、茶室は四畳半が基本とされていました。

 

珠光はそれまでスタンダードだった六畳を離れ、四畳半に新しい茶の湯の世界を求めた人物で、飾りを簡素化し、人と人との親密な触れ合いを重視する侘びの精神を志向しました。

 

この珠光の侘び茶の思想を受け継ぎ、完成させたのが千利休です。

 

一般的な四畳半茶室は、床前(床の前の畳)は別格扱いされてきました。

 

貴人畳も客畳と言えますが、貴人畳の方が床前なので格が高い。

 

しかし待庵では、貴人畳と客畳を分けず一枚の畳にまとめ、おもてなしの空間を成立させています。

 

この限られた空間に身を置くことで、客と主人の心の交わりを深めることができる反面、おもてなしのための道具や手段に制約が加わってきます。

 

だからこそ創意工夫の面白さを追求できる、これを侘びの心意気とし、その体現を利休は目指したのです。

 

天井面の板の方向を変え、高さに変化をつけたり、通常は柱が見えてく場所を塗り壁で柱を隠したりするなど、限られた空間を狭く感じさせない工夫が随所に散りばめられています。

 

無駄なものをそぎ落とした美しさは日本の美の特徴としてよく挙げられますが、利休が志向した侘びの精神とそれを実践した待庵に、確かににその源泉を見ることができるのです。

 

以上、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)からでした。

 


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