―「不動産」と「人」との幸せな関係とは?―

 

不動産のおもしろ歴史①

 

今回も大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)の片隅から不動産の話をつらつら書いていきます。

 

当社は場末のレンタルオフィス企業ではありますが、曲がりなりにも不動産を生業としておりますので「不動産」という業界について考えることがあります。

 

不動産は、その建物自体に意味があるのではなく、人との関わりを持ってこそ価値が生まれるのだと思います。

 

ですから人と築き合う「関係」が不動産の価値を決めると言っても過言ではありません。

 

不動産と人と結ぶ関係はというと、企画や開発、販売や管理、そして実際に入居して使われるテナントや個人と、色々です。

 

ただ、忘れてはならないのは、不動産と人との幸せな関係のデザインこそ、不動産に関わる者として大切にすべき職業観だと考えます。

 

自社の仕事にもっと厚みをもたせるべく、「不動産と人との関係」を様々な角度から掘り下げ、時には道草しながら、不動産という仕事のこれまでとこれからについて、ゆるりと考えを深めていければと思います。

 

さて、そもそも「不動産」について。

 

「不動産」はいつ生まれたのでしょうか?

 

不動産を考えるうえで切っても切れないのは「土地の所有」の概念です。

 

土地というと、国有なり私有なり、あるいは不動産の投資投機、権利云々といった財産として語られますが、

 

昔は土地というと、豪族・貴族・王たちの領土、縄張りといった捉え方が多かったです。

 

支配地域では住民に農産物を生産させたり、徴兵、徴税させたりするなど、統治をしていたわけです。

 

聖徳太子の没後、有力豪族であり、天皇家の血族にずぶずぶと食い込んでいた蘇我氏が政治を壟断していましたが、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我一族を倒し、ご存知『大化の改新』を行いました。

 

 

ここでは土地は「公地」であり民は「公民」であることが謳われ、更に班田収授法・国郡国里・新しい税制などを定め天皇を中心とする中央集権国家を完成させました。

 

ちなみに律令制の根幹をなす班田収授とは、飛鳥政府から田を受給する資格を得た貴族や民へ田が与えられ(班給)、また死亡者の田は政府へ回収させられる制度です。

 

班給された田は課税対象であり、その収穫から租が徴収されました。

 

つまり国家による一元的な統制管理のもと、土地を適宜民に分配し利益創出をさせたわけです。国による土地運用の開始ですね。

 

さて、時代が下り奈良時代になると、班田収授が崩壊し始めます。

 

重税や労役などが重く農民にのしかかり、苦しさから逃れる為に田を捨てて逃亡する者が増えました。

 

今でいうところの耕作放棄地ですが、切迫度の次元がそもそも違います。

 

当時の国家の産業基盤はほぼ農業でしたし、今みたく食料の海外輸入もできなかったわけですから、農業生産力の低下はすなわち国家維持の死活問題でした。

 

つまり農地が荒れるだけ、ダイレクトに飢えに繋がるのです。

 

食料自給率100%なんて聞こえは宜しいんですが、飯を全て自前で賄わないといけない点において、生きるか死ぬかの世界なのです。

 

腹が減ればイライラしてしまうのが人、国も同じく腹を空かせ過ぎると社会不安が噴出します。

 

そこで国は、723年に「三世一身法」を定め、「開墾した土地について期間を定めて私有すること」を認めました。

 

さらに743年に「墾田永年私財法」で『開墾した土地の永続的な私有』を認めました。

 

これによって、貴族・豪族・寺社は農民たちを集め土地の開墾を行い、私有地の拡大に乗り出しました。

 

「荘園」の始まりです。この場合ディベロッパーは貴族たちになるでしょうか。

 

 

この途上荘園の守護や開墾、耕作などの運営を管理する見張りが後の「武士」の源流の一つとなったのはご存知の通りです。

 
武士
 

私有地の公認による荘園の誕生は、公地公民制の崩壊を意味します。

 

そして荘園支配者と政府の関係が次第に変化していきます。

 

平安時代になると、領主は自らの政治権力を駆使して「不輸の権利」「不入の権利」を獲得した免税農地の荘園が発展します。

 

前者は租税の免除、後者は国の使者の立ち入りを認めない権利です。

 

また税を逃れる為に、皇室や摂関・大寺社へ荘園を寄進する者も現れます。

 

こうして「なんとしてでも税を徴収したい国」と「なんとかして税を逃れたい領主」の対立構造が現れ、紛争が各地で頻繁しました。

 

この中で地方豪族や農民のなかには領内の治安・勢力を維持・拡大のため、武装する者が現れました。

 

また、紛争鎮圧のために政府から派遣された中級・下級の貴族が、そのまま現地に留まる者もいました。

 

こうして武士による軍事集団が各地に形成されていったのです。

 

室町時代になると、幕府は乱世を抑えるために地方武士の組織化して土地管理の権限を与えるようになります。

 

この守護を守護大名といいます。一方、荘園で暮らしていた民衆も村落を形成し、村落同士が集まり地域自治の体制を築き出します。

 

このような村落を惣村といい、広域のものを郷村といいます。

 

このような守護大名の権力強化と村落の自立が、結果として貴族たちが支配していた荘園の弱体化を招きます。

 

更に戦国時代になると武力で土地を勝ち取ろうとする者が現れました。

 

これが戦国大名と言われる者たちです。

 

今までの上下関係に関わらず、武力が強ければ土地をぶんどる弱肉強食下剋上上等の世界。

 

土地があれば民と富と食料が手に入り、国力増強に直結します。

 

1580年の豊臣秀吉の太閤検地で、荘園はついに消滅します。

 

さて、土地も貴族の支配から武士の支配へと移り、1603年、徳川家康が江戸に幕藩体制の封建国家を築きます。

 

当時の土地の所有状況を見ると、土地は武家・寺社が8割を所有し、庶民は2割程度でした。

 

しかし人口比率は武家・寺社と庶民の数は同じであったため、庶民は狭い土地に密集して暮らすことになります。

 

そのため、「長屋」、つまり「賃貸」が現れました。

 
長屋
 

これが「不動産業の誕生」と言われています。

 

江戸幕府において、土地は幕府所有であり、元々土地の売買は禁止されていましたが、実際は有力商人たちによる土地の取引と所有がありました。

 

当時の感覚では、有力商人は長屋を持ち、大家を雇い、庶民へ賃貸する、という社会的責任があったそうです。

 

とは言え、長屋の広さは、間口が9尺(2.7m)で奥行きが2間(1.8メートル)というのが一般的な大きさでした。

 

部屋全体の大きさとしては6畳相当になりますが、土間や台所なども含めてその大きさですから、居間兼寝室となる部分は4畳半!

 

ここに家族が住まい、内職、食事、起居していたわけですから、今日であればNHKスペシャルあたりに取り上げられそうな社会問題ネタでしょう。

 

隣の部屋との仕切りも薄い壁1枚のみなので、隣人の声などはほとんど筒抜け状態で、プライバシーの何もへったくれもあったものではなく、むしろ隣人に用事ある時は壁越しで会話していたそうです。

 

ただ、これが江戸の町ではあたり前だったので、隣にどんな人が住んでいるのかさえよくわからない現代人と違い、隣近所の人たちがまさに家族同然で生活を送っていたと想像されます。

 

大都市である江戸のワンルーム賃貸住宅・「長屋」を中心に絆の強い地域コミュニティが形成されていたでしょう。

 

壁や柱を薄くしてしまうと、現代では地域コミュニティの形成以前に欠陥住宅として槍玉に挙げられてしまうのがオチですが、

 

逆に敢えてそういう「自他を遮る物理的な境界の薄い」設計の建物のほうが、そこで暮らす人同士の関係のあり方に何らかの影響を及ぼすかもしれませんね。

 


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