ココ・シャネル

弊社、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)が行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。

 

そのような仕事ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、

 

そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。

 

とは言え、私は専門的にデザイナーとしての教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。

 

本物のデザイナーというのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものです。

 

今回もそんな天才デザイナーの一人をご紹介します。

 

■不遇の幼年時代

シャネル。

 

スーツ、ドレスに始まり、香水、バッグ、化粧品にわたるまで、もはや知る人はほとんどいないと思われるほど、フランスが生んだ名だたる高級ブランドです。

 
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それを一代で築き上げたのがデザイナーのガブリエル・シャネル(Gabrielle Chanel)です。

 
シャネル
 

これはココ・シャネルの「Coco」は彼女の父親から与えられたニックネームだと言われています。

 

生涯最後まで女王としてモード界に君臨し続けたシャネルは、実は孤児でした。

 

シャネルは1883年、フランスのマイン=エ=ロワール州で生まれました。

 

父親は作業着や下着を売り歩く行商人、母親は慈善病院で働く洗濯婦でした。

 

暮らしは貧しく、一家は荒れ果てた下宿に住み、シャネルら子どもたちは学校にすら通うことができなかったそうです。

 

シャネルが11歳の時に母は亡くなります。

 

母親の死後、父親は息子を農場作業員として働かせ、シャネル含め3人の娘を修道院が経営する孤児院に預けました。

 

母体が修道院であるためか、孤児院での規律は厳格、生活は質素そのものでした。

 

この孤児院でシャネルは裁縫を学び、後に仕立屋に就職します。

 

手につけたこの職が、後にシャネルのキャリア拓き、センスを表現する武器となったのです。

 

■帽子デザイナーからキャリアスタート

シャネルがデザインの道に入ったきっかけは帽子でした。

 

当時彼女は、フランス軍の元騎兵将校かつ繊維業者の息子であるエティエンヌ・バルサンと一緒に暮らしており、

 

バルサンの家に出入りする女性たちのための帽子をデザインしていました。

 

始まりは単なる趣味のようなものでしたが、バルサンから「本格的に帽子を作ってみては?」

 

と勧められ、1910年に婦人用帽子職人の免許を取得。パリのカンボン通り21番地に「シャネル・モード」と名付けられた帽子屋をオープンしました。

 

1912年、女優のガブリエル・ドルジアットがシャネルの帽子をかぶったことをきっかけに、シャネルのデザイナーとしてのキャリアが開花。

 
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シンプルでデザイン性の高いシャネルの帽子は徐々に人気を得ていくようになります。

 

シャネルはやがて帽子から洋服へとデザインの手を広げ、クチュールハウス(高級服仕立て屋)を次々にオープン。

 

レジャーやスポーツに適したカジュアルウェアを発表しました。

 

当時は主に男性用の下着素材だったジャージーやトリコットなどの生地を取り入れたシャネルのファッションに、

 

シルクやサテンなどの高級素材に慣れていた顧客たちは最初は戸惑いますが、戦争の影響で高級素材が手に入れにくくなる一方、

 

ジャージー素材は大量に手に入れることができた上に、安価で着やすかったため、やがて顧客たちに大いに受け入れられるようになったのです。

 
シャネル
 

■女性のパンツルックのパイオニア

シャネルによるファッションの革新はほかにもあります。

 

「女性のパンツスタイル」です。

 

彼女は恋人であったバルサンの影響で乗馬にも嗜むようになりますが、

 

当時のフランスの上流階級の女性の服装は未だ中世フランスの派手な装飾とこんもりとしたボリュームのある着付けがステータスとされていました。

 

そのためロングスカートやつば広の帽子を着付けた女性たちは、乗馬時は横座りで騎乗するのが作法でした。

 

が、こうした作法に無頓着だったのか、無知だったのか、あるいはシンプルを愛する天性の合理精神によるものだったのか、

 

シャネルは現地の仕立て屋に自分の体形に合わせて乗馬用のズボンを作るようにリクエストしました。

 

ズボンは男性が履くもの。これが当時の常識。

 

彼女のリクエストは倫理観念に抵触する過激なものであると世間の目に映りました。

 

のちに第一次世界大戦が始まり、出征していく男性に代わって多くの女性が工場などで働くようになり、作業着として男性用ズボンを履く人も増えていく中、

 

そんな姿を見て、シャネルは女性用のおしゃれで機能性の高いパンススタイルをデザインして打ち出しました。

 

今どき女性のパンツスタイルなんて珍しくともなんともないんですが、

 

世の女性が普通にパンツを着られるようになったのは、実にシャネルが風穴を開けたからだと言ってもよいでしょう。

 

■ケネディ夫人も着たシャネルスーツ

今日ではファッションの一ジャンルとして定着したシャネルスーツ。

 
シャネル
 

清楚な気品と動きやすさを兼ね、日本でも結婚式や入学式といったオフィシャルな行事で着て行かれる女性を多くお見かけします。

 

最初のシャネルスーツは1923年8月パリのコレクションで披露されました。

 

シャネルが初めて手掛けたツイード(目のあらい斜文織りの毛織物)生地のスーツが話題を呼び、

 

そこにはファッション性に対する感嘆のほかに、今までは男性の服装だったスーツを女性のためのファッションに仕立てた破壊的挑戦に対する驚きもあったでしょう。

 

「女性は窮屈な服から解放されなければいけない」

 

新しいスタイルである女性のためのスーツをシャネルがリードしました。

 
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第二次世界大戦後、シャネルスーツさらに洗練されることとなり、ツイード生地に加え、襟なしのスクエア型ジャケット、

 

スリムストレートの膝丈スカート、スーツのメインカラーと対照のブラックの縁取り、シャネルロゴの入った印象的な飾りボタン。

 

シャネルのポリシーである「女性の自立と自由」を余す所なく体現し、媚びるようなフェミニンらしさよりもストレートかつフォーマルなデザインがシャネルスーツの特徴となりました。

 
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今や女性のフォーマルスーツの定番となり、デザイン自体がシャネルスーツと呼ばれていることからも、

 

シャネルのファッションが与えた影響の大きさを伺い知ることができます。

 

アメリカの元ケネディ大統領夫人であるジャクリーン夫人が、夫が暗殺された際にシャネルのスーツを着ていたのも有名な話ですね。

 

■伝説の香水「シャネル N°5」

服だけでなく「香り」もシャネルのファッションの一部と言えます。

 

恐らくは世界で最も有名な香水「シャネル N°5(オードゥ・パルファムNo.5)」は1921年に誕生しました。

 
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かのマリリン・モンローも記者に「寝る時に身につけるものは?」と質問され、「No.5を数滴」と答えたとか。

 

今日まで香水のベストセラーとして君臨する伝説の作品です。

 

そしてシャネルの5番の特徴と言えば四角いガラスボトル。

 

これはシャネルが恋人のカペルが革製の旅行用ケースに入れて持ち歩いていたボトルの長方形のライン、

 

あるいはカペルが使用していたウイスキーのデカンタからインスピレーションを得ていたと伝えられています。

 

シャネル5番のデザインには、彼女が自身を委ねたロマンスのから生まれたと言ってもよいかもしれませんね。

 

■70歳のカムバック

第二次世界大戦が始まるとシャネルは店舗を閉鎖します。

 

戦後、ナチスの諜報機関に協力したことからフランス国民から非難を受け、シャネルはスイスでの亡命生活を余儀なくされます。

 

戦後1954年にパリで店舗を再開。この時すでに御年70歳過ぎ。

 
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ファッション界の新星、クリスチャン・ディオールらの台頭に押されつつも、

 

翌年にはシャネルスーツでモード・オスカー受賞、現在まで受け継がれる多くの名作を世に輩出します。

 

生涯にわたってモード界の先端を走っていたシャネルは、1971年に87歳でこの世を去りました。

 

最期の言葉はメイドにかけた「人はこんなふうに死ぬのよ」という一言。

 

惚れ惚れする人生です。

 

以上、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)からでした。

 
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