デザイナーたちの物語 オットー・コロマン・ワーグナー

弊社、大禅ビルが行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。

 

そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、

 

そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。

 

とは言え、私は専門的にデザイナーとしての教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。

 

本物のデザイナーというのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものだと思っています。

 

◯伝統と革新の過渡期に生きた建築家

今回ご紹介するのはオットー・コロマン・ワーグナー。

 
ワーグナー
 

19世紀に活躍したオーストリアの建築家、家具デザイナー、都市計画家です。

 

1841年にウィーン郊外に生まれたワグナーは、ウィーン工科大学や、ベルリンの建築アカデミーで学んだ後ウィーン美術アカデミーに進み、1863年に卒業します。

 

当時のウィーンではさまざまな歴史様式による公共建築が建てられていった時代でした。

 

ワグナー初期の作品も同様に歴史主義的でしたが、50代になる1890年代以降は、ドイツ語圏のアール・ヌーヴォーである

 

「ユーゲントシュティール」

 

へと転身します。

 
ワーグナー
 

ウィーンの都市計画顧問となり、現在のウィーン交通の基礎ともなっている市営鉄道を計画すると同時に、駅舎や鉄橋、水門などを設計しました。

 

1894年にはウィーン美術アカデミーの教授に就任し、講義をまとめた『近代建築』を1895年に出版。

 

そこでは歴史主義建築を批判し、社会の変化に対応した新しい素材を用いる建築を主張し、「芸術は必要にのみ従う」という名言を残しました。

 

◯ウィーン出身の建築家

1841年、ウィーン郊外で公証人の家に生まれたワーグナーは、5歳の時に父親を肺病で亡くします。

 

16歳でウィーン工科大学に入学し、建築を学び始めます。

 

1860年にはベルリンに渡り、王立建築アカデミーでカール・フェルディナンド・ブッセに師事しました。

 

当時のベルリンは新古典主義建築の中心地であり、またブッセはドイツの新古典主義・新ゴシック建築の指導者でした。

 

1861年にウィーンに戻り、ウィーン美術アカデミーで、新古典主義のウィーン国立歌劇場やウィーン・リング通り沿いの建築モニュメントを設計したアウグスト・シカルト・フォン・シカルトブルクやエドゥアール・フォン・デア・ニュルに師事して、建築教育をみっちり受けます。

 

1863年卒業。同年、ウィーン市立公園の会館の建築設計コンペに応募し1等賞を獲得、才能の片鱗を見せます。

 

1890年に市の都市計画顧問に就任し、ウィーンのための都市計画プロジェクトの準備に取り掛かります。

 

同年以降、ウィーン市の交通施設・ドナウ整備委員会に参画し、ドナウ運河の水門、ウィーン環状鉄道の駅舎、トンネル、橋梁などの計画に関わりました。

 

◯ワーグナーの代表作

カールスプラッツ駅

 
ワーグナー
 

市営鉄道の建設に携わったワグナーによる駅舎の1つで、カールス広場北側に2棟が対となって建っています。

 

金色の装飾が施され、緑色のフレームで白い大理石の壁面パネルが固定されています。

 

金と緑のコントラストがなんとも艶やかな作品ですね。

 

ウィーン郵便貯金局

 
ワーグナー
 

ユーゲントシュティールから脱した晩年期、近代建築の最初期の名作です。

 

それまでの装飾とは異なり、実用性に基づいた装飾が施されています。

 

内部には、自然光を取り込むアーチ状の二重ガラス屋根のアトリウムがあります。

 

近代建築の幕開けに位置づけられています。

 

マジョリカ・ハウス

 
ワーグナー
 

ユーゲントシュティールの建築です。

 

「マジョリカ焼き」と呼ばれる花模様のタイルで外壁が覆われていることから、 マジョリカ・ハウスと名付けられました。

 

現在も集合住宅として使われています。

 
ワーグナー
 

◯ウィーン分離派として

ワーグナーは新しい造形をめざしたウィーン分離派の中心人物の1人でした。

 

彼が活動していた19世後半から20世紀のはじめにかけ、ウィーンにはアール・ヌーボーから影響を受けたウィーン分離派と呼ばれる芸術運動がありました。

 

ウィーン分離派は画家のグスタフ・クリムトが中心となってはじまったもので、古典主義からの脱却を目指した運動です。

 

この時期につくられたワーグナーの代表的な建築作品の一つが、先にご紹介したカールスプラッツ駅なんですね。

 

植物を模した装飾や幾何学的な形態を特徴とし、ウィーン分離派の代表的な建築に数えられます。

 

ここでは後のモダニズム建築に見られる近代主義的な合理性よりも、絵画や彫刻などの芸術との親和性が見られます。

 

◯芸術は必要にのみ従う

ワーグナーは、建築物は何よりも機能的でなければならないと考え、独自の建築哲学を展開し、キャリアを通して発展させ続けました。

 

彼は著書『近代建築』の中で、彼を表す代名詞ともなる

 

「芸術は必要にのみ従う」

 

という、モダニズムを含んだ言葉を書き記しています。

 
ワーグナー
 

彼にとって「近代」というのは、固定不変ではなく、変化しながら今の時代と調和を整えていくあり方でした。

 

またワーグナーは、古典主義のもつ伝統重視の姿勢を次のように批判しています。

 

「建築家は、豊かな伝承の宝庫に入ることはできるが、そこで選んだものを模倣するということでは話にならない。

 

そうではなく、伝承されたものを新しい造形によってわれわれと目的とに適合させるか、あるいは、既存の手本の効果から自分の意図する効果を見つけ出すのでなければならない」

 

つまり頑なに伝統を墨守するのではなく、時代に合わせて伝統を変革させていきなさいと、ワーグナーは説いています。

 

またワーグナーは建築家のあり方についても書いています。

 

「建築家は他の芸術家、画家や彫刻家と比較しても、裕福になることはない。

 

建築家に重要なのは才能と学習である。他の芸術と比較すると学習することが多く、才能だけでなれるものではない。

 

また学習だけでもよい建築家にはなれない。

 

建築家を育成する教育者は建築家を目指す若者の適性を見極める必要がある。

 

そうしないと長期間にわたる学習をしたにもかかわらず建築家になれず、若者の人生が破綻してしまうことになる。

 

適性を見極めるにはある一定期間、実際にアトリエに入ることが望ましい」

 

という。

 

ここで書かれているのは、建築家という職業、そして生き方が持つについて述べています。

 

才能と学習、そして覚悟。

 

ワーグナーの教育者としての一面が伺えますね。

 

合理性や機能性を求めたワーグナーの「芸術は必要にのみ従う」は、後に近代建築への布石となりました。

 

彼は歴史主義から近代建築への過渡期をに生きた建築家だったのです。

 

以上、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)からでした。

 


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