福岡アジア美術館『嵐の描く芸術家 張國強作品展』に行ってきました!
■中国の若手現代アーティスト・張國強氏の日本初展示
「同郷の友人画家を紹介したい」
と、張先生の日本でのマネジメントをやっている友人が大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)にお連れしたのは、ちょうと去年の今頃でした。
ご夫婦で来られていました。
旦那さんは絵をひたすら描く。
美術史の先生でもある奥さんは経理からプロモーションまで全般を担当、大番頭ですね。
夫婦以上に、共に戦う同志のようでした。
作品もご紹介頂きました。
風流でありながら幻想的、キャンバスから飛び出るようなグラフィカルな色彩の鮮やかさに目を奪われたのを覚えています。
今後中国だけでなく日本でも活動していきたいと、その思いを伺ってから一年後、まさか本当に今回の福岡アジア美術館での作品展を実現させてしまうとは・・・
恐れ入ります。
今回を含め、日本を訪れるのは3回目だそうです。
なぜ日本なのか?という質問に対し、
「日本の芸術は自らの伝統と外来の文化を高度に融合させ新しく創造することに成功している。
だからこの日本で活動を広げるのは私の芸術の進化に繋がる」
とのこと。
中国では未だ芸術を含む異なる文化を融合させ、オリジナルな芸術文化を創造できないでいると。
西洋芸術の追従と真似ばかりか、中国の伝統芸術の千篇一律な焼き直し。
芸術家なのに創造のブレイクスルーができないもどかしさが張先生をして海外に挑ませたと言っていいでしょう。
新しい芸術の創造により一層身を削っていきたいと。
アートはあまり詳しくありませんが、張先生の言葉の奥に、日本の職人魂と一脈相通ずる沸々とした静かな情熱を感じました。
筆を握って20年以上、描いた絵は500枚を超えたそうです。
浮薄なビジネスに走らず、ただストイックに己の創作を磨き、壊し、また再構築する。
一人の芸術家の作品とは、他ならぬその人自身の人生なのかもしれません。
そんな張先生の日本初の作品展を拝見し、その所感を書いてみようと思います。
■越境する芸術家
張先生にとって芸術とは、「視覚」という言語を媒介とした芸術哲学の実験の場だそうです。
絵画とデジタルグラフィックを両手に携え、思想の境界を探索しながら新しい表現手法を編み出し、
想像の半径を押し広げ、常に心は未踏の地へと奔らせる、そのような心持ちで創作に関わっているという。
世界と自分のギリギリを抉っていく。
これが張先生が究極的に追求したい芸術のあり方です。
確かに、常人以上の感受性とセンス、それらを表現するための技術を持ち合わせている芸術家が、このような激変の時代においてどんな役割を果たせるか考えた時に、
今の時代の向こうを先んじて探求・感受する者として、彼らが己の創作に巡らす思想の骨組みに時代的な個性や問いが体現されるのではないかと思います。
例えば、私たちの日常生活を振り返ってみても、世界を見たり、情報を得たりする方法は昔と大きく異なっています。アナログとデジタル、紙とスクリーンのように。
こうした世界認識のあり方の変化が作品においても体現されれば、作品が訴える視覚にも、鮮明な時代らしさを帯びるのではないでしょうか。
■私たちを隔てる「境界」
日本と中国の年間貿易額は既に4,000億ドルを超え、両国の訪問人数は相互合わせて1,000万人に迫る勢いです。
歴史を顧みても、両国は政治・経済・文化に亘りまさしく一衣帯水の関係にあり、未来においてもどんな形であれ、交流は一層緊密になりこそすれ断絶は考えにくいでしょう。
しかしそうした交流と、交流の現場から発信される情報は往々にしてある一定の人工的・恣意的な枠組みに沿っており、
個々人の生の体感・体験は枠組みの前に捨象されてしまいがちです。
両国間には依然として
「我が国は優秀=アジアのリーダー」
「うちは日本人、おたくは中国人」
という論理が大きく横たわっているのが現実であり、「日本」「中国」という精神的国境を引いて一線を越えない状況が続いています。
様々な領域で交流による努力が行われていますが、精神的国境に無意識・無自覚であるため、
いわゆる「交流」はただ単に相手のレッテルを確認するのみで、理解したつもりの対象は結局
「画一化された想像上の他者」
に過ぎません。
結果、次第に違和感は増幅し、血肉の通った人間であるはずの相手に対して、その背景への理解と具体的な対話がないまま不毛な対立と怒りに発展してしまう。
今の時代に求められているのは、国や民族、経済圏といった人工的に作られた便利上の枠組みの外にある共通感覚を探り当て、交流を取り結ぶ結節点としての
「共感経験の創出」
です。
共感経験が豊かになれば、今ここで目に見えない相手の背後にあるリアリティーへの想像を促してくれます。
個々人の体験から立ち上がる共感の枝葉が張り巡らされ、しなやかな骨格となり、多様性に耐えうる寛容さを持った社会醸成の端緒となります。
それは同時に先入観や慣性思考への良き牽制となり得ます。
そして共感経験の創出には、異物の枠組み同士の邂逅が不可欠です。
異物の枠組み同士の邂逅は危険そのもの。
しかし同時にそれは創造の源泉でもあります。
その顕著な例を私たちはいくつも例を知っています。
アジア文化に遭遇した古代ギリシャ文化、シルクロードを通じた中国文化とインド文化の出会い、
古代に中国文化を摂取し、近代は西洋文化を我が物としてきた日本文化の歩みも、また然り。
ある一つの枠組みが独り存在している間は、創造的エネルギーは簡単に顕在化しませんが、
ひとたびそれが他の枠組みと邂逅した場合、突然異常な力で噴出することがあります。
ただこの際、爆発するエネルギーを真に創造的に生かすことができるかどうかは、 ひとえに当事者、
つまり接触関係に入った枠組みの担い手の越境的能力にかかっています。
■境界を融かす嵐
70年代以降、中国における伝統文化と、膨大に流入する外来価値観との相克相生の疾風怒濤を創作の現場で身をもって体験してきた張國強氏の視線は、
7時代の激変の中で蹂躙され、あるいは研磨される「生」の生々しさに常に注がれていました。
私たちは一体誰で、これからどこにゆくのか。
西洋の価値観をいかに咀嚼するのか。
中国の膨大な伝統文化に縛られるのではなく、いかにそれを飛躍の土台とするのか――
東洋の近代史はアイデンティティーの自己探求の歴史でもあります。
それは中国においても、日本においても程度の差こそあれ、共有できる体験でしょう。
いまや一層複雑性を増しつつある世界に対して、再び自らと異なる枠組みとの対話を迫られる新しい状況に入ろうとしています。
そうした中、張氏は価値観の濁流にも果敢に飛び込み、伝統と革新、東洋と西洋、水墨と油絵、絵画とデザインを跨ぎながら、
芸術同士の既存の境界ギリギリをえぐることを通じて、一芸術家の視点から時代への回答を呈し続けてきました。
異なる芸術同士がぶつかり合うダイナミックな緊迫感の中で、新しい地平の展望が拓け、
それによって自己を超え、境界を超え、芸術同士の対立をも超えて、張氏の芸術がより高い次元へと飛翔する。
「現代グラフィック創作の実験家」
を自認する張氏の描く
「境界のその先」
の姿形は、そうした自己と時代との格闘が底流しています。
芸術同士の邂逅がもたらす視覚的な衝動と快感、それを切り出すため異領域を縦横に跨ぎ、受容し、
繋ぎ合わせる張氏の芸術態度は日本においても共感を創り出します。
彼の作品が内包する越境性の時代的意義は大きい。
張氏の描く最新作『嵐の花園』シリーズ。
天地を洗うが如く透明感を醸すその嵐は、世界の境界を融かしてくれる希望の花園になるかもしれません。